プロフィール


来生たかお大百科

※原則的に、来生たかおは“来生”に省略、来生えつこは“来生えつこ”と表記。

アーチスト面

概要

控えめ且つノスタルジックで心温まる楽曲で知られる屈指のメロディーメーカー。その多くはマイナー調であり、淡々としていながら叙情漂うそのメロディーと、ほとんどビブラートの掛からない囁くような歌唱は「来生節」と称される。また、歌手活動と同時に、姉である来生えつことのコンビを主軸に作曲家としても活動しており、日本ポピュラー音楽史上に残るスタンダードナンバーを送り出している。一般的な肩書はシンガーソングライターだが、担当しているのは歌唱と作曲であり(自作曲の幾つかは編曲も担当)、そういう意味では「歌手兼作曲家」と表するのが正確である。また、実の姉弟によるソングライティングチームはあまり類例がなく、特にデビュー当初は夫婦に間違えられる事が多かったという。

音楽性とポリシー

来生は、自身の音楽の基本はノスタルジーであり、熱愛の頃をふと思い出すようなものを作って来たという*1。デビューアルバム『浅い夢』から最新作に至るまで作風はほとんど変わらず、普遍的な心地好さの中にセンチメンタルなもの、哀愁があるものを作りたいと語っている*2。また、歌手よりも作曲家に向いていると語る一方で、自作品の細かなニュアンスを一番知っている自分自身でも歌いたいとも述べている*3

夢の途中」「セーラー服と機関銃」がヒットした頃、凝った楽曲を生み出すギルバート・オサリヴァンを引き合いに、日本のフォークソング系の歌手は音楽的な勉強が足りない旨を指摘しているが、そんな中で井上陽水や山下達郎は立派だと語っている*4。2002年には「自分はまだ良い曲が作れていると思っている。そう感じられなくなったら辞める」と前置きをしつつ「今、同世代のアーティストが作っている曲は駄目。なんでこんな退屈な曲を作って歌っているのかと思ってしまう。昔の曲の方が断然良い」と力説している*5。2007年には自身よりも年長の岡林信康が歌う姿を観た時はそのパワフルさに刺激を受けた旨を語っていたが*6、後年に70代の加山雄三が歌っている姿を観た際は、自分にはとても無理だと吐露している*7

2003年から傾倒し始めた映画監督の小津安二郎と自身との共通点について、おこがましい事と断りつつ、何処にでもある日常を淡々と静かに描く作風がワンパターンと批判された際の小津の発言「豆腐屋の自分にはステーキやハンバーグは作れず、兎に角良い豆腐を作るだけ」(大意)に共鳴し、自作品もデビュー曲から全く変わらないが、ワンパターンというのは素晴らしい事だと述べている*8

音楽事始め

ザ・ベンチャーズの影響で14歳の時にギターを始め、17歳の頃に曲作りを始めた*9。当時、えつこの友達が実家にやって来てはよくギターで洋楽のフォークソング(ピーター・ポール・アンド・マリーの「500マイル」等)を歌っていたが、時には自作曲も披露しており、それを羨ましく聴いていた事が何よりも先に曲作りのきっかけになったという*10。当初はザ・スプートニクス*11やザ・ベンチャーズを代表するインストゥルメンタルものが好きだったが、音楽の聴き方が変わり、最初にヴォーカルに耳が行くようになったという*12。また、荒木一郎や弾厚作(加山雄三)等、日本のシンガーソングライターの影響もあった事を明かしている*13

来生の母によれば、学校の成績が芳しくなかった来生に大学生の家庭教師を付けた所、来生はその家庭教師からギターを習い、友達とバンドの練習を始めたという*14。来生と楽器店に同行し、夫に内緒でギターやアンプを買い与えた母は、「とても上手に弾いていた」と語っている*15。ちなみに、東京サウンド株式会社が製造した「グヤトーン」は*16、アンプ込みで9800円くらいだった*17。コピーバンドを組んだ来生は、「マスダ」という友達の家でよく演奏をしていたが*18、ザ・ベンチャーズのノーキー・エドワーズのテクニックに敵う訳もなく、将来ギタリストになりたい等とは思わなかったという*19

姉の来生えつこがノートに書き留めていた散文に勝手に曲を付けた事が姉弟での曲作りの原点で、やがて次々に浮かぶメロディーに詞が追い付かなくなると、来生がギターでワンフレーズを口遊み、えつこが目の前でそれに合わせて歌詞を書くという形に移行した*20。このスタイルは姉弟が別々に暮らすようになるまで続いた*21

18歳の頃、来生えつこと共に処女作「サラリーマン」を含むレコードを10枚以上自主制作し、文化放送やニッポン放送へ持ち込んだ所、斉藤安弘の『オールナイトニッポン』で取り上げられた*22。朝の5時頃に来生えつこと共にその放送を聴き、感動したという*23。一方で、ヤマハの音楽プロデューサーだった木下純によれば、「ヤマハポピュラーソングコンテスト」に楽譜で応募して来た来生を落選にした事があるという*24

2、3年間、余り外出もせず曲作りに邁進し*25、バンド仲間等*26、周囲の人間に自作曲を聴かせている内に「もしかしたら音楽でやって行けるのでは」と思うようになった来生は、音楽理論の書籍を読んだり、音大生の友人女性に譜面の書き方を教わったりして勉強をし*27、19歳の頃には、いつかは作曲家として認められるだろうとのんびり構えていた*28。アマチュアの時代には既に100曲程ストックしていたという*29

ピアノを始めるきっかけの1つとして、ザ・ビートルズの「Let It Be」を挙げている。イントロを聴いた時に「これくらいなら自分でも弾けるかも知れない」と思ったという*30。また、音大生から、本格的に音楽をやるのならばピアノをやった方が良いとのアドバイスもあり*31、20歳の時に「おたまじゃくし(音符)として書き留めたい」「曲作りの幅を広げたい」との思いで、近隣の個人教室で子供と交じりながらピアノを習い始めた。その際、「Yesterday/イエスタデイ」くらいしか知らないクラシック畑の先生にザ・ビートルズの良さを伝えようとレコードを持参したという*32。週1回のレッスンを週3回にして貰い、自宅では紙鍵盤で練習、3ヶ月でバイエルを終わらせ、約1年半の教室通いの後は独学でこなした*33。そんな来生に母はピアノを買い与えたという*34

曲作りの実際

ほとんどの楽曲はメロディーが先に作られ、歌詞は後から付けられるが、中には「Goodbye Day」のように先の例もある。来生えつこ曰く、来生は、歌詞を先に渡すと簡単な楽曲を、メロディーが先だと難しい楽曲を作って来る*35。来生としては、歌詞は先でも後でも構わないが、前者の場合は歌詞の内容や字数等を考慮する必要がある為、特に自演曲の場合は先にメロディーを作る方がやりやすいと語っている*36。また、全く白紙の状態で姉のイメージで書いて貰う為、思い掛けない歌詞が付いて来る事があるが、不思議とマッチしているという*37

来生えつこによれば、姉弟同士では相手の作ったもの(歌詞、曲)に口出しはしないが、ディレクターからは直しを求められる場合がある*38。しかし、曲作りに自信がある来生は、何を言われようが自分の意見を押し通し*39、プロがあらゆる方法で一番良い形に作り上げているので一部分だけを直す事は出来ず、いっそ新しいものを作った方が早いと考えている為、来生えつことしては、歌詞の方を直してしまうと語っている*40。なお、基本的には歌詞に注文を出さない来生だが、語尾が「い段」だと歌い辛い為、その場合は指摘する事もあり*41、また、時には男っぽい歌詞が欲しいと思うが、本来の自分は「僕」「君」の世界の人間で「俺」「お前」というのは嫌な為、性格的に正反対の姉としては、それを理解しているが故に、もう少し冒険をしたいのではないかと察している*42

なお、自分で歌詞を書かない理由に関しては、アマチュア時代に井上陽水から作詞を勧められたものの*43、いざ書いたものを貶されてしまい、きっぱり止めた事を明かしている*44。自分には作詞の才能がなく、散文派でも詩人派でもないメロディー人間で、もし楽曲の構成要素をランク付けするならば「メロディー」「ヴォーカル」「アレンジ」「歌詞」の順になり、「メロディー」以外はその重要度に大差がないと述べている*45

作曲において、頭の中にきっかけになるフレーズが浮かぶ事はあるが、メロディーは自然に出来上がっては行かず、「作ろう」という気持ちになって部屋に篭もるという*46。楽曲は一応1日で形になるが、翌日から手直しを始め、2、3日に1曲のペースで完成させるという*47。楽曲によっては短時間で出来たものもあるが、概ね数日から数週間くらい掛かるものもあると述べている*48

頭から順番に作って行く場合がほとんどで、イントロが浮かぶと割と良い曲が出来上がるが、4小節程度作って上手く行かない時は翌日に回すという*49。また、作曲は「技術」であり、自分の「引き出し」からイメージを持って来て組み合わせる為、特定の情景を思い浮かべて作る事はないと語っている*50

自演曲の場合は、一挙に作り上げるという事は滅多になく、部分的に出来たものを暫く放置し、他の曲作りをしつつ完成させて行くという。散歩中に走る電車を遠目で見て「ああ、生きてるんだな」と感じたり、車窓から田舎の風景を見たりした時に創作意欲を掻き立てられる事もあり*51、そういう時や就寝の前に浮かんだメロディーを録音したり譜面に起こしたりする*52。5分で作れと言われれば作れるが、大抵は録音しておいたものを客観的に聴いてみて、おかしな部分を直す作業をするという*53。最初のモチーフから自分のイメージ通りの「良い曲」にするのは難しく、中には7年くらいかけて作った「不幸色のまなざし」のような楽曲も存在する*54。ちなみに、夢の中で作曲をしている事もあり、とても良い曲が出来たと感じつつも目が覚めると思い出せないのだという*55

締め切りが迫るまでは、一応頭では考えつつ、前日に初めてピアノに向かって纏め上げるパターンが専らで*56、或る程度のモチーフは出来ているものの、いざ完成させる段になってモチーフ自体がイメージと違うと気付き、徹夜になる事もあると明かしている*57。時間に追われない事で良い作品が出来ると考えており、アルバム制作においてもトータルサウンド的にはせず、締め切りに間に合わない場合は次の機会に回し、良い楽曲だけで埋めて行くというやり方をしている為、人によって好みはあるだろうが、広い見方をすればケチを付けられる悪い楽曲は1つもないと自負している*58

「矢倉銀」というペンネームで幾つかの自作曲の編曲を手掛けている。当初は作曲家としてのペンネームとして考えていた*59。レコーディングには基本ヴォーカルでのみ参加しているが、自ら編曲を手掛けた楽曲の中にはピアノやエレクトリックピアノで参加しているものもある。

自作品の出来に落ち込んだり恥ずかしくなったりする為、コンサートの選曲の時以外は滅多に聴き返す事はない*60。中には「難しい曲を作ったものだな」と感心したり*61、「何でこんなに難しいんだろう。もっと簡単に作れないのか」と思ったりする作品もあるが*62オリジナルアルバム余韻』に収録されたカヴァー曲を聴くと、自らの手による楽曲はとても敵わないと感じるという*63

コンサートで変えられる部分を改良し、決められた時間の中で録音したものよりも完成度が高い状態にしているが*64、自分の作品が後世まで残って欲しいとは思わないと述べている*65

提供曲の場合は、メロディーにある程度音を重ねたデモテープを作り、作詞家が依頼主の要望に沿った歌詞を付け、それに来生が歌を入れて渡す流れになる。人気のある人物に提供する場合に一生懸命やるのは当たり前で、埋もれてしまうような小さな仕事こそ丁寧にやろうを心掛けており*66、これは棋士の米長邦雄が語る、消化試合でも全力を尽くす事で運が舞い込むという持論の影響だが*67、提供歌手が新人故に音域が広くない易しいメロディーを要望される事もあり、その時は少々欲求不満になるという*68。また、音楽一筋の歌だけで勝負する歌手が好きな為、音楽以外の仕事に手を出している人物に楽曲を依頼されても思い入れが湧かず、無難なもので良いという気分になってしまうと述べている*69。提供歌手が歌ったものは、思いの外良い事もあればその逆もあるという*70

提供曲の依頼は、来生作品でイメージチェンジを図りたいアーティストからが多いという*71。当初はアルバム曲の依頼が多く、しばたはつみの「マイ・ラグジュアリー・ナイト」や三浦友和の「ほほえみの扉」等しか代表曲と呼べるものがなかったが、「夢の途中」「セーラー服と機関銃」の大ヒットでシングル曲を含めて依頼が殺到した*72。それ以前は、競作曲の1つとしての依頼が多く、しょっちゅう書き直しをさせられ*73、自分で納得する作品が出来てもまずシングル曲に選ばれなかったが、それが変わり、確実に楽曲を浸透させられる良い状況になったという*74。年間100曲以上作っていた時期もあり、時に「来生はマンネリ」と揶揄される事もあったが、「夢の途中のような曲を」との注文を付ける依頼が少なくなかった為、自然と似たようなコード進行になってしまったと吐露している*75

楽曲提供を希望する歌手として、デビュー当時から山口百恵岩崎宏美の名を挙げており*76、後に実現させている。また、井上陽水には壮大なバラードのようなものを作りたいと述べており*77、実際に井上をイメージして作られた楽曲(「夜の底へ」「真昼のくらやみ」「スローナイト」)が存在する。1982年頃には、井上に「歌詞が出来たら持って行く」と言われており*78、2000年にリリースしたオリジナルシングル地上のスピード」で共作(作詞:井上陽水/作曲・歌唱:来生たかお)は実現しているものの、楽曲提供は実現していない(井上による「シルエット・ロマンス」カヴァーは実現している)。また、じっくり腰を据えて好きなアーティストのアルバムの全収録曲を手掛けてみたいとも述べており、井上陽水美空ひばり山口百恵の名前を挙げているが*79、こちらも実現していない(実現しているのは桃井かおり三浦友和平井菜水倉橋ルイ子)。

作曲は自分の才能を削って行く仕事なので、いつもその削れた部分を埋めて行く(才能を補充する)為、クラシック、スタンダード、最新のポップス等、常に音楽に浸るように心掛けているという*80。若い頃は意外性に富んだメロディーを作りたいという思いが強かったが*81、「ムーン・リバー」や「上を向いて歩こう」等、一見誰でも作れそうなシンプルなもの程、究極の楽曲だと述べている*82

また、長年の曲作りで身に付けたのは、上手く怠けるコツだという*83。自演曲の場合は、スケジュールにある程度の融通が利く故に期日が迫ってから困る事があるが、提供曲の場合は音域やテンポ等を含めて制約がある為、却ってやり易いとも語っている*84。ちなみに、提供曲の中には、作った事を完全に忘れている楽曲もあるという*85

打ち込みによる曲作りは、1996年に購入したパソコン(Mac)を使い、PAのスタッフ(高橋、中島)の手を借りながら一日掛かりで録音をしたのが初めてだが*86、締め切りの直前まで作業をしない為、中々使いこなすまでには至らず*87、自らのピアノやベース、ドラムやストリングス等の音源をオペレーター(2000年代以降はパソコンに詳しいバックバンドのRYUMEI)に整理して貰ってデモテープを作っている*88。譜面も、細々とした作業をする為、パソコンは用いず、清書まで手書きで行っているという*89

最も使用するコードは「m7-5(マイナーセブンスフラットファイブ)」と「ディミニッシュコード」で、哀愁や優しさがあるからだという*90。また、楽曲の2、3箇所に好みのメロディーがあれば納得出来るが、最大のヒット曲になった「夢の途中」には1箇所(「抱いていたいけど」の部分のメロディー)にしかその部分がなく*91、余り自信がなかったという*92

1980年代前半から暫くは自宅から自転車で5、6分の場所に仕事場を借ていたが*93、それ以降は、1984年に購入した自宅の地下が仕事場になっており、午前9時か10時頃に起床し、夜の7時頃まで曲作りをするという生活スタイルだという*94。日本レコードセールス大賞作曲家部門において年間売上第2位を獲得した1982年頃から作曲数が格段に増し、翌年の1月、2月だけでも40曲の依頼を引き受け、午前朝9時から午後8時まで作曲に専念してもまだ時間が足りず、テレビ番組(フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』)に出演した際も、楽屋にエレクトリックピアノ(カシオトーン)を持ち込み、焼きそばを食べながら仕事をしていたという*95


レコーディング

当初は立って歌っていたが、上手く行かなかった為、それ以降は基本的に座って歌っている*96。作曲をする時もステージで歌う時も大抵ピアノの前に座っているからか、立つと不安になるという*97映像ソフトTAKAO KISUGI THE VIDEO Something Else』や、テレビ番組*98等で、座ってレコーディングをしている場面が映し出されている。

ステージ

これまでにグランドピアノ、エレクトリックピアノ、アコースティックギター、エレクトリックギターを担当して歌った事があり、2001年からはピアノの弾き語りのみの公演も試みている。以前は楽器を弾きながら歌う事が専らだったが、徐々にマイクを片手に歌う機会が増えるようになった。しかし、観客の出入り等、余計な事が気になってしまう為、楽器を弾きながらの方が歌に集中出来るという*99。また、観客の声援も気になってしまい、「ター坊」という掛け声に思わず演奏の手が止まってしまった事があるという*100

ロックコンサートであれば多少のミスは大丈夫だが、来生のステージは静かな為、少しのミスでも目立ってしまい、元々人前で歌うのが得意でない事もあり、緊張から声が震えたり、歌詞を間違えたりするという*101。ちなみに、大きく間違えた時は、基本的に最初から歌い直す。

高校時代までは、バンドを組んでいながら恥ずかしさから人前で歌う事が出来ず、学園祭等でも披露出来なかったという。大学時代に結成した三人組のバンド「ビコーズ」で、それは初めて実現したものの、緊張から声が震え、客席を見る事も出来ず、ずっと下を向いて演奏していたと回顧している。

歌手デビュー当時も、特に弾き語りでステージに立つ場合は、前の晩から眠れず、一切食事が摂れなかった*102。また、コンサートツアーの1、2週間前になると同じ夢をよく見る事を明かしており、開演間際にも拘わらず何も準備が出来ておらず、訳も分からずに出鱈目に歌い出すと客席からブーイングが起きるという内容だという*103。開演前のベル(1ベル)で袖に待機するまで戦々恐々で、いざステージ上に出る瞬間、心の中で「えーい、胸突き八丁でぇ」と叫ぶが*104、これまでに上手く行ったコンサートはないと語っている*105。また、緊張を緩和する最後の手段は煙草で*106、喫煙が可能な会場では、アンコールの再登場前に一服するのが常である。

以前は拒否していた日本武道館でのコンサートは、歌手デビュー15周年記念の『来生たかお in 武道館 アコースティックスペシャル』で実現させたが、もし東京ドーム公演の依頼があってもきっぱりと断ると述べている*107

テレビ出演の心境をよく「寿命が縮む」という言葉で表現する*108。歌手デビューの翌月にはもうTBS系の音楽番組『サウンド・イン"S"』に出演する事になり、しばたはつみ、世良譲トリオ、タイム・ファイブ等、錚々たる面々と共に7、8分のメドレーを行うことになったが、失敗したら頭からまたやり直しになるという極度の緊張感を味わい、実際に1回ミスをしてしまった事で*109、その光景が今でも夢に現れるという*110

緊張を理由にコンサート会場からの中継を辞退した事もあり*111、番組の本番を待っている時に雑誌のインタビュー等がある方が気が紛れて良いと述べている*112。一方で、テレビ出演は精神面の強化にもなるので、試練、挑戦として受け止めているとも語っている*113

夢の途中」「セーラー服と機関銃」のヒット以降、音楽番組への出演依頼が増えたが、圧倒的な数の人間が観ていると思うと満足に歌えず*114、テレビの事を考えるともうこれ以上ヒットして欲しくないと語っている*115。この3年くらい前までは、プロモーションの手段として効果的なテレビに出て売れたいという気持ちがあったが、中々出して貰えず、地道にコンサートをやろうと考えていた*116。しかし、急に忙しくなった来生は、地味な自分を期待しているファンの事を考え、あまりに露出が増えると新鮮さがなくなってしまう事を危惧し、戸惑ったという*117。また、テレビでは「自分の音」が出ないという理由で出演を断るアーティストの気持ちは解るが、来生自身は割り切って考えた方が良いと語っている*118

コンサートの為に歌詞を覚える際は、まず一通り紙に書き、これを何日も繰り返していると頭の中に漢字の位置等がインプットされ、その後は散歩をしながら口遊むと語っている*119

デビュー当初からMCでの口数は少なく、初ステージでは台本を用意していたが*120、2012年にヘルニアを発症し、ステージでの演奏曲目を減らした事をきっかけに、それ以降はMCの時間が多くなり、MC専用のサロンチェアやサイドテーブル、メモを置く譜面台が必需品になった(サロンチェアは2015年まで)。MC中に話したい事柄を失念し、その後の演奏中に思い出して歌に影響するという事が起きた為、予め台本を用意するようになったという*121

音楽的自己評価

音楽における自身のレベルを評価した事があり、その際に軍人の階級を用いながら「歌唱力」「(ピアノの)演奏力」「音楽的知識」は「下士官」、「作曲(楽曲)」のみを「佐官」としている*122

プライベート面

身体

  • 1995年のデータ*123
    血液型:O型/身長:165.8cm/体重:60.5kg/足のサイズ:25.5cm/視力:両目とも1.5
  • 2015年のデータ*124
    血液型:O型/身長:165.7cm/体重:67.5kg/足のサイズ:25.5cm

若い頃は痩せ型だったが、45歳でぷっつりテニスを止めてしまった事で7、8キロ太り*125、尚且つ50歳を過ぎてから間食をするようになった為*126、50代半ばに結婚指輪が指に食い込んで外せなくなり*127、やがて腹囲が93センチ、ズボンサイズが28センチくらいになった*128。結局、40代から60代に掛けて約20キロ太ったと述べている*129。ただし、2015年に人間ドックを受けた所、体重が7キロくらい減っていたという*130


髪を掻き上げる癖があり、コンサートにおいて曲間やステージを捌ける際等によく垣間見られる。

髪型に拘りはなく、ステージに上る際も自分で軽くムースで整える程度で、衣装と共に10分程度で完了してしまうという*131。『来生たかおライヴ Much more...』に収録された「夜の底へ」のイントロには、楽屋で準備をする映像が挿入されている。

音楽評論家の富澤一誠によれば、MCが苦手な来生が頭を掻くとその度に髪の毛が逆立ち、客席から忍び笑いが漏れたという*132。また、文化放送の公開番組*133に出演した際、寝癖のまま現れた来生を見たマネージャー(岩瀬貞行)は大急ぎでブラシを買い求め、どうにか髪を整えたが、番組終了後にやって来た女性ファンは、母性本能を擽る寝癖がなかった事を残念がっていたという*134。それ以来、マネージャーは鞄の中にブラシを常備するようになった*135。フジテレビ系『森田一義アワー 笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演した際は、松任谷正隆から電話越しに「髪の毛が立ってる」と指摘されている*136

テニスに熱中していた1980年代後半、プロ選手のミカエル・ペルンフォルスの影響で短髪にしていた頃も、癖毛を抑える為にスーパーハードのムースを使用していた*137

また、2008年に小椋佳のトリビュートコンサート『小椋佳トリビュートコンサート 夢歌詩、あるところに』に出演した際、小椋はすっかり白髪になった来生に驚きつつ、自身は髪の量が減った為「髪があるだけ良いです。やっかみです」と会場を沸かせた*138

2019年に開催された『来生たかお Exclusive Live Memories of Showa』では、髪をオールバック(リーゼント)にして登場した。

体質

頭を洗っても洗わなくても頭垢がよく出て、同時に髪を掻き上げる癖の為、或る時、頭垢が服に落ちるのが気になって麻雀に集中出来ていない事が判り、それ以来、麻雀の時は頭垢が目立たない色の濃くない服を「勝負服」としている*139

幼少の頃以外は蚊に刺された記憶がなく、夫婦で犬の散歩に出掛ける際に、完全防備の夫人に対して来生はTシャツに半ズボン姿だが、蚊が止まっても血を吸わずに去ってしまうという*140。この体質は若い頃からで、来生は、血液がアルカリ性か、単に不健康で蚊に好まれないかも知れないと語っている*141。ちなみに、子供は刺されるという*142

性格

自身の性格を対人恐怖症気味と評している通り、テレビやラジオ出演時のトークは苦手で、基本的に寡黙で淡々としている為、司会者や出演者にその点をつっこまれたり気を遣われたりする事も珍しくなく、姉弟が揃ってメディアに出演する時は来生えつこが積極的に喋る傾向にあり、家を一歩出ると大人しくなると述べている*143

幼少時から内向的で、バンドを組んでも人前では演奏せず、音楽喫茶のステージに立つ事になって初めて実現出来た程だった。歌手デビュー後も、照れ故にコンサートの打ち上げでも余り騒ぐ事が出来ず、ワーッと発散しているスタッフ等を見て羨ましく思うという。

また、厭世的で、ニヒリズムが漂い、自身曰く「善い事をしないが、悪い事もしない」*144。年齢を重ねてからは、無理をすると翌日に何も出来なくなる為、明日出来る事を今日やる必要はないと思うようになり*145、この信条は自伝的趣向の楽曲「夢の途中譜」の歌詞にも反映されている。

好きな色は、「色の白いは七難隠す」の白色*146と黒色*147。好きな花は、淡い緑色の掌状葉に淡紅色の花が咲く酔芙蓉*148。好きな匂いは、愛犬“マル”の鼻にキスをする時の匂い*149

事故が不安な為、なるべくなら飛行機に乗りたくないと述べている。「夢の途中」のヒット以前は仕事が忙しくなかった為、コンサートで北海道へ行く場合でも船で前乗りをしていたが、ヒット以後はスケジュールの都合で乗らざるを得なくなってしまった*150。行きも帰りも飛行機を使う場合、帰途もまた乗らなければならないと思うと気分が落ち込むが、万が一事故が発生した場合に「死の直前の姿」を噂されないよう、現地では普段と違う振る舞いをしないように心掛けているという*151。同じ理由で、飛行機に乗る直前に何気なく掛けた電話が「最後の言葉」になってしまう事に抵抗がある為、家族には電話をしないが*152、逆に言えば、家族と同乗する場合は一緒に死ぬことになるので問題はないと述べている*153

携帯電話やパソコン(インターネット)等のテクノロジーに乗り遅れた口で、現代人はそういったものに振り回されているように見えるものの、便利さは理解しており、全否定はしていないという*154。ちなみに、所有する携帯電話は、いつしか電池カバーを紛失してしまったが、不自由をしない為、そのまま使用し続けている。しかし、スマートフォンに買い替えた妻が自慢気にLINE(ライン)等をしている為、自分も買い換えを思案している旨を明かした事がある*155(その後、実際に買い替えたと思われる)。

お笑い芸人の小島よしおと誕生日(11月16日)が同じと知り、急に親近感が湧いたと述べ、また、生後10ヶ月だった孫がテレビを観て一番喜ぶのは小島だと話した事がある*156。また、お笑いグループの我が家が面白いと発言している*157

人生観

30代の頃、思想家である岸田秀の「全ては幻想である」という主張に衝撃を受け、コンサートのMCでしばしば氏の思想について触れる。後年、駄目元で自ら岸田と連絡を取り、オフィシャルホームページの企画「来生たかおトークセッション」の第3弾で対談を実現させている(岸田秀著『官僚病から日本を救うために 岸田秀談話集』〈新書館/2009.05〉に収録)。また、好きな言葉は「色即是空、空即是色」と語り*158、「前向き・プラス思考という言葉は好きではない」「年を取るとピュアな恋愛なんて不可能」等、ネガティブな発言も少なくない。一方で、「幸せとは?」と問われた時は「一言では言い表せない事」と答えている*159

「大きな野望・小さな野望」との問いを投げ掛けられた折りは「昔から大きな夢も野望もない」と前置きをしつつ、強いて言えば、大きな野望は「かみさんと車で日本全国の温泉巡り」、小さな野望は「タクシーの運転手」と述べている*160。子供の頃の夢は、畳屋の職人*161やコック*162で、小学生時代は料理が好きで、夕飯の手伝いをしながら親に教わり、ハンバーグや味噌汁が得意になったという*163

また、ミュージシャンになっていなかったら、昔から憧れていたサラリーマンになっていただろうと述べている*164。また、吉本隆明の言う「労働=人間の価値は嘘」という価値観に共鳴し*165、生まれ変わるとしたら人間以外なら何でも良いとも語っている*166

50代の頃は、手相において「生命線」が短い為、長生きは出来ないと思っていたが、長生きをして老境を味わってみたいという気持ちと、老い耄れまで生きたくないという気持ちが同居している旨を述べ*167、朝起きた時に心の中で「生きているんだな」と呟く事があり*168、60代になると「明日出来る事は今日するな」「階段は手摺りをしっかり握って下りましょう」を座右の銘とし*169、敬愛する作家である山口瞳の「僕は死にたくない」「死ぬのが怖い」という発言に実感が持てるようになり*170、「全てにおいて薄ぼんやりしている」、「朝起きた時から疲れている」*171、「腰が痛くて靴下を履くのが大変」*172、「後何回オリンピックを観られるか」*173、「10メートル先の歩行者用信号機の青が点滅していても、昔のように走らず諦める」*174、「健康じゃないけど病気はしない」*175等、ネガティブな発言を頻発させている。

女性観・恋愛観

初恋は小学校3年生の時、同じクラスの人気者が相手だった*176。ただし、別のインタビューでは、小学校5年生の時に転校して来た、女優の浜美枝に似た医者の娘で、学級委員を務めていたと語っている*177

中学生の頃は専らグループ交際で、高校時代に初めて2人切りでデートをしたが、事前に何処で待ち合わせて何処へ行くか等の計画を立てて映画鑑賞をしたが、ずっと緊張していた為、疲れた事しか覚えていないという*178。女性とイチャイチャと喋るのは嫌いだが、可愛い子を尾行して自宅を突き止めた事があったり*179、作曲に熱中してからは女性は眼中になかったものの、女性に捧げる歌を作ったりしている*180

自分の意志や意見を持っている強い女性が好みのタイプで、演歌に描かれるような女性は苦手と発言しており*181オリジナルアルバム余韻』でカヴァーをした「今日でお別れ」に描かれている、気遣いから男性のネクタイを直してあげるような女性は苦手だという*182。結婚だけを夢見ているよりも、1つでも何か技術を持っている方が良く、物静かな女性であれば、無口な自分でも率先して話すと述べている*183

また、ふくよかな女性が好みで、芸能人では佐久間良子*184、春川ますみ*185、三原葉子*186の名を挙げている。相手が好意を示さなければ自らアプローチする事はない為、大失恋の経験はない*187。浮気はせず、性欲はない方が良いとも語っている*188


エピソード

幼少期

来生えつこによれば、幼少期はぼうっとした子で口が遅く、何度訂正しても「えんぴつ」を「いちんぷ」、「きなこ」を「こなき」、「あぶく」を「ぶくわ」、「おひる」を「おへる」と表現する等、幾つかの単語を間違えて覚えていたという*189。来生自身は「いちんぷ」の記憶はないが「こなき」と言っていた事は覚えているという*190

幼稚園に入園する際、入り口で地団太を踏んで泣きじゃくり、行きたくないと母親に訴えたという*191。このエピソードは、自伝的作品の「夢の途中譜」に描かれている。

他人の家に遊びに行くのは子供心に気を遣うので、大抵は自分の家に友達を呼んでいたが、基本的には一人遊びが好きだった為、居留守を使う事もあったという*192

小学3年生まで暮らしていたのは東京都駒込で、父親が務めていた三菱商事の社長宅内にあった門番用の借家から洋風の大邸宅を羨望の眼差しで眺めていた為、「家」には執着があると述べている*193。社長宅の前は竹藪のある広い空き地で、絶好の遊び場だったが、小学2年生の頃、病床でふと空き地を見たいと思い、塀の前に積み重ねてあった板に乗った所、それが崩れ、突き出ていた釘で3針を縫う怪我を負い、その時の傷跡は今も右腿の内側に残っているという*194。また、家の裏手にあった六義園も遊び場で、隠れん坊や鬼ごっこに興じていた一方、庭で一人でチャンバラごっこをしていた*195

次に引っ越した田無市の「ひばりが丘団地」時代は、戦時中の米軍のトラック、ジープ、ブルドーザーの残骸が積まれた原っぱや牧場、畑、肥溜め等が記憶に残っているという*196

極普通だった学校の成績の中で体育だけは「4」を取る程活発だったが*197、基本は内弁慶で、その傾向は成人してからも変わっておらず、都会っ子の脆さを持ったシャイな人間だったという*198。苛められっ子ではなく、仲間内ではボスの次に友達が多かったが*199、姉にはプロレスごっこで苛められ*200、自伝的楽曲「夢の途中譜」では「何度も脱臼させられた」と歌われている。

青年期

高校時代は煙草、麻雀、パチンコに明け暮れ、一番楽しい時代だったと述懐している*201。息子を大学へ進学させたかった母親が家庭教師を付けたお蔭で高校時代は成績は上がったが、基本的には勉強嫌いで、大学に進学したのもあくまで両親の意向であり、音楽の方面で忙しかった来生は次第に授業に出席しなくなった挙句、中退してしまった*202

嗜好

煙草

大の愛煙家で、煙草とコーヒーがなければ曲作りが出来ないと語っている*203。煙草をより美味しく吸う為にコーヒーを飲むとまで述べている*204

煙草は16歳から吸い始め*205、学校内の他、バスを待っている間に警官に見付かって補導された事もあったが*206、よく徹夜マージャンをしながら吸い殻を山盛りにしていたという*207。1982年からのハードスケジュールにより、1984年に自宅の玄関先で倒れ*208、不整脈と診断された事から*209、銘柄を『ハイライト』から『セブンスター』に替えたものの*210、1980年代(30代)には日に60本から70本*211、1990年(40歳)のインタビュー*212では日に約60本吸う事を明かしており、1997年のラジオ番組では「健康の為に吸っている。止めたら癌細胞が動き出して肺癌になりそう。どうせ死ぬ訳だし、危険を遠ざけて生きるのはつまらない」として、日に約80本は吸うと述べている*213。その後、2016年(66歳)にはその数が40本に*214、2019年(69歳)には30本から35本程度に減っている*215。なお、コンサート会場におけるファンからのプレゼントの中で最も嬉しいのが煙草だが、銘柄は『セブンスター』の「ソフト」でないと下痢をしてしまうという*216。『セブンスター』に代えた当初は悔しかったと述べている*217

コンサートのMCでは、喫煙をし難くなっている世の風潮に意を唱えている。持論として、煙草が嫌われるのは、不健康だからではなく、煙による汚れが原因で、物事には良い面と悪い面があり、悪いだけのものならばとっくに消え去っている筈で、最も体に悪いと明言する「仕事」のストレスを癒してくれる、「一病息災」で例えるならば自分にとっては煙草が「一病」だと語っている*218。これまでに一度も煙草を止めたいと思った事はなく*219、病院で健康診断を受ける際にはどの医師からも禁煙を勧められるが、却って煙草を擁護したくなり、大病でも患わなければ止める気はないと断言している*220

ちなみに、ステージでの緊張を緩和する最後の手段は煙草で*221、アンコールの前に一旦袖に捌けて一服するのが習慣だが、全面禁煙の会場ではステージに戻る時間が早くなり勝ちで、来生自身もしばしばその事に言及している。


コーヒー

好きなコーヒーはモカ*222、キーコーヒーのアイス*223や、キャラバンコーヒーのアルミパックの加糖のアイスで、ミルクと砂糖は欠かせず*224、1日に15杯から20杯は飲むという*225。コンサートのステージ上にもコーヒー(と白湯*226)がマグカップで用意されており、歌の合間に口にする*227。なお、企画アルバムLABYRINTH』のレコーディングでフランスのパリを訪れた際は、陰鬱だった同地の思い出の中で、エスプレッソが美味だった事は忘れられないと述べている*228

食性

雲丹、イクラ等の高級な食材は食わず嫌いの傾向にあり、コンサートツアーで各地を回る時も名産に興味が持てず、普段から納豆や味噌汁*229、ラーメン、炒飯、スパゲッティ(ナポリタン)*230、バターと醤油を掛けた白飯、ファミリーレストランの「そこそこの味」ではないハンバーグ(しっかり焼けたハンバーグ*231)、かつ丼*232、ご飯に卵やとろろ芋、味噌汁を掛けるのも好きだと述べている*233

*234やレバー、筋子も苦手で*235、クッキー類等の菓子は特に好きではないものの*236、来生えつこからは「味覚は子供の頃と変わってない」と揶揄された事がある*237。ただし、35歳からテニスをやっていた期間は、その心地好い疲労感のお蔭で色んな食べ物への欲求が高まったという*238

自宅での食事は一汁一菜(ご飯、味噌汁、おかず1品)で構わず、夫人が色々と作ると「おかずが多い」と怒るという*239。好きな味噌汁の具は豆腐*240の他、若布、油揚げ、葱と語っている*241

おでんは、幼少期から竹輪麩が好きで、屋台のおでん屋の中では安い具材だった為、よく食べていたという*242。また、結婚が決まって現夫人の故郷を訪れた際、夫人の姉の家で食事をする事になり、食卓にカレーライスと共におでんが並べられてとても驚いたが、いざ食べてみると相乗効果が生まれて美味しく、それからは来生家の定番の組み合わせになったという*243

ラーメンは、昔ながらのオーソドックスな醤油味が好きだという*244。特に「長浜ラーメン(福岡県博多市)」、「徐州楼(宮城県仙台市)」、「ホープ軒本舗吉祥寺店(東京都武蔵野市)」のラーメンがお気に入りで*245、「生姜ラーメン みづの(北海道旭川市)」*246や「バリバリラーメン(埼玉県新座市)」*247も美味しい店として挙げている(「徐州楼」や「みづの」(1986.10.16付)の店内には来生のサイン色紙が飾られている)。美空ひばりが歌の本番前にチャーシューメンを食べると聞き、それを真似た時期があった(ただし、チャーシューメンがあまり好きでない来生は普通のラーメンにしていた)*248

蕎麦は、自伝的内容の楽曲「夢の途中譜」で歌われているように「掛け」が好きで、海苔が苦手な為「盛り蕎麦」よりも「笊蕎麦」を好むという*249(後の記述では「盛り蕎麦」も好きな食べ物として挙げている*250)。

寿司は、中トロと玉子の握りがあれば構わないと発言している*251

元々は下戸で、ビール1杯を付き合いで飲む程度だったが*252、1985年にテニスを始めたのをきっかけにもっと飲めるようになり*253、通常の食事の際にも注文するまでになったという*254。とは言え、その量は中ジョッキ1杯程度で、キリン、サッポロ、アサヒ、ヱビス等の銘柄の違いは判らず、今では年に何回か飲む程度だと述べている*255

趣味

野球

中学時代に陸上部で長距離をやっていた他はスポーツに縁がなかったが、「夢の途中」のヒット以降、多忙を極め、不整脈が出て倒れてしまった。体力的に危惧を感じた来生は、1984年に来生えつこが作った野球チーム「ビコーズ」に参加するようになった*256。また、自らもツアーメンバーと共にバックバンドと同名の野球チーム「スタートル」を結成し、各地の放送局やイベンターのチームと試合をしたが、1勝も出来なかったという*257

基本的にはプロの試合観賞が専らで、読売巨人軍や東北楽天ゴールデンイーグルスのファンで、贔屓のチームが負けると食が進まずプロ野球ニュースを全く観ないほど機嫌が悪くなるが、逆に、勝つとほとんどのスポーツニュースを観ると語っている*258。やがてメジャーリーグの方が面白くなり、2004年に苦手なタイプの堀内恒夫*259が読売巨人軍の監督に就任し、同軍が低迷した事をきっかけにアンチになった*260

テニス

1985年の夏、35歳でテニスを始める。毎年レコーディングをしていた伊豆スタジオの近隣にテニスコートがあり、新たに担当した若いディレクターに誘われたのがきっかけだったという*261。やる前は軽く考えていたが、ラケットにボールを当てられても相手のコートには入らない悔しさと、ジャストミートした時の快感から、その翌晩からは2時間もプレイする程、嵌って行く事になる*262。また、30歳を過ぎて体力の衰えを感じるようになり、無理をして倒れてしまった事、子供と怪獣ごっこ等で遊ぶのが辛く感じていた事、そして「同じ事(曲作り)を繰り返しながらも、常に新しいもの(楽曲)を創り出す」作業に対して情熱を持続させるのが難しく感じていた事が、テニスに夢中になった要因と自己分析している*263

オートテニスに通い、ビデオや本で研究し*264、やがて、来生えつこの仲介により、山口昌男を中心としたテニスサークル「山口組」に夫婦共々参加し、栗本慎一郎や村上龍等とプレーしていた*265。また、棋士の田丸昇や高橋道雄ともテニス仲間で、プロテニスプレーヤーの福井烈に相手をしてもらった事もあるという*266。本人曰くプロ級の腕前で*267、ラケットスポーツ誌の「平成2年度芸能人テニス腕前番付」においても「雨さえ上がればコートに出る熱中ぶり」で「東」の「張出大関」にランクインした事がある*268

コンサートツアーの合間にマネージャーやバックバンドのメンバーと共にテニスに興じていた時期もあり*269、ファンの集いがテニスツアーになる程だった*270。曲作りが中心の時期も、「1日1曲」というノルマを課し、2曲作れれば翌日はテニス、3曲作れれば翌日、翌々日はテニスという算段をしており*271、1987年には232回プレイしたという*272

愛用のラケットは、腕前の向上と共に10数本を経た後、プロ選手から頂戴したアシックスやプリンスの特注品になり、シューズは側面に緑色の3本線が入ったアディダス製で、同じ物を3足所有し、コートの中だけでなく、普段からTPOに合わせて履いていた*273。ちなみに、プロ選手のミカエル・ペルンフォルスの影響で自らも短髪にした*274

また、最初はコーラや缶コーヒーで水分補給をしていたが、プレイ後にビール(バドワイザー)を口にするようになり、それまで全くの下戸だったにも拘わらず、通常の食事の際にも注文までになった*275。心地好い疲労感のお蔭で、食事の欲求が高まり、寝付きも良くなったという*276。更に、テニスの効果で歌うのが楽になり*277、5年から10年は歌手生命が伸びたと感じたと語っている*278

ただし、ここまで熱中したテニスも45歳の時にぱったり止めている*279


将棋

楽曲の売り込みをしていたアマチュア時代、毎日のように近所のプロ志望の男児(アマチュア3段の中学2年生*280)を相手にしたり、道場に通ったりしていた*281。22、23歳の頃にアマチュアの初段と対戦して全く手も足も出なかった事が将棋にのめり込むきっかけになり、負けたくないという思いで将棋本を買い漁り、研究をしたという*282。50冊程を徹夜で読み、長考故に1局に5時間を掛けていたという*283

「居飛車」を得意としており、東久留米の将棋クラブで米長邦雄や田丸昇等と対戦した事もある*284井上陽水と対戦した際は勝ったという*285。音楽の仕事が忙しくなってからは10年以上、遠ざかっていたが*286、テレビゲームでも専ら将棋や麻雀を楽しみ*287、テレビでプロの対局を観戦するのも好きだという*288

なお、自作曲の編曲に携わる際は、将棋に因んだ「矢倉銀」というペンネームを使っている。

麻雀

小学校3年生で「ひばりが丘団地」に引っ越した時、北海道のギャンブル好きな従兄が大学進学を機に居候をする事になり、父親や姉とやり始めた*289。最も熱中していたのは高校2年生から3年生に掛けてで、仲間と共に2時間程早く学校を退出し、親には授業が早く終わったと誤魔化しながら自宅で遊んでいた*290。麻雀牌2枚を使った神経衰弱で遊んだ事もあり、52枚しかないトランプ以上に面白く、家族の中では、来生が8割程を当ててしまったという*291

その後、キティレコードの社員としてインスペクターをやっている頃も周囲に麻雀好きが多かった為、よく興じていた*292。多賀英典の発案でキティレコードの事務所に偶々居合わせた小椋佳井上陽水と共に4人で対戦した事もあり*293、松任谷正隆や松任谷由実ともよく卓を囲んでいた*294。来生は、なるべく待って面前で手を作って行き、親になったらセコく上がり、子供の時はじっくり考える為、対戦者には嫌がられるタイプと述べているが*295、何度も一緒に卓を囲んだ事のあるコンサートプロモーターによれば、来生はとても強く、懐が深く、潔く、男らしいので、気持ちが良いという*296。また、麻雀をやる時には「勝負服」があるという*297

なお、麻雀や将棋に関して、オフィシャルホームページの企画(来生たかおトークセッション第1弾「麻雀」(2005)、第2弾「将棋」(2005)、復活! 来生たかおトークセッション第1弾(2015)))でプロを交えた対談を行っている。

パチンコ

16歳くらいで始めたパチンコは、学校を早退すると煙草を吹かしながら徹夜でやっていたという*298。来店の際は、大人びて見えるように父親のポマードを髪に塗る程で*299、18歳で一旦は止めたものの*300、その後はパチンコの儲けで自宅の風呂を改築した事もあった*301。1995年には『CR黄門ちゃま2』に嵌ったという*302

コンピューターゲーム

「スペースインベーダー」や「ゼビウス」等のアーケードゲームも好きで、コンサートツアー先でもゲームセンターに足を運んでいた*303

「スペースインベーダー」は松任谷正隆の影響で*304

麻雀ゲーム「ジャンピューター」でアソンデいた時期もあった*308

「ゼビウス」は「スペースインベーダー」の100倍も面白く*309、嵌った記念として1983年の12月にテーブル筐体の機器を購入し*310、100円で数時間は持つ程の腕前を息子に伝授したという*311。なお、来生は自身最高の970万点を獲得するまでに5時間くらい掛かると感じていたが、夫人に訊いた所、6時間は掛かっていると答えられたという*312

競馬

長らく興味がなかったが、2015年には趣味の1つとして挙げており、広い競馬場を歩くのは良い運動になるのではないかと語っている*313。ただし、馬券の購入に大金を使う事はなく、2019年の皐月賞では2000円分のみだったという*314


映画

幼少時はチャンバラ映画が全盛の頃で、大川橋蔵が好きだった母親に連れられ、毎週3本立ての映画を観ていたが、劇中で斬られたら本当に死ぬと思っていた来生は、翌週の映画に同じ俳優が出て来る事が不思議だったという*315。また、映画で覚えた台詞を諳んじながらチャンバラごっこをしていたと述べている*316。また、大川橋蔵と共演していた美空ひばりを観て、「大人になったら結婚するんだ」と言っていたという*317

2003年の小津安二郎生誕100周年をきっかけに、それまでほとんど関心がなかったその作品に一気に傾倒する。コンサートのMCやテレビ番組への出演時に映画を話題にする事があるが、その中でも同監督作品はよく登場する。鎌倉にある生前の邸宅や墓前*318、NHK総合『SONGS』に出演した折りには、晩年に仕事場として使用していた長野県は蓼科の別荘「音無荘」にも足を運んでいる。また、アルバムのデザインワークにその雰囲気を反映させている他、歌手デビュー30周年記念アルバム『avantage』には同監督の作品『長屋紳士録』(主演:飯田蝶子)で笠智衆が歌ったのぞきカラクリの唄「不如帰(ほととぎす)」を基にした「夢の途中譜」を収録している。また、コンサート会場では、開演前のBGMとして劇中曲を流している。

また、是枝裕和もお気に入りの映画監督で、特に好きな作品として『歩いても歩いても』*319、『海よりもまだ深く』*320を挙げている。

苦手な映画のタイプとして、「超越的(あり得ない)設定」「サクセスストーリー」「お涙頂戴」「濃厚なラヴシーンがあるもの」の4つを挙げている*321

ただ、本来は映画館で観るべきとは思いつつも、TSUTAYAでディスクを借りるか、BS民放、WOWOW、スカパー!の放送を録画するかして自宅で鑑賞する方が、煙草を吸ったり、コーヒーを飲んだり、横になったり、一時停止してトイレに行ったり、台詞が聞き取れなかった時には早戻しで確認が出来、快適で良いと語っている*322

もし映画を作るとしたら、1972年に起きた「あさま山荘事件」の銃撃シーンを撮りたいと述べている*323。また、もし出演するならば、アメリカ映画『Bonnie and Clyde/俺たちに明日はない』『The Getaway/ゲッタウェイ』のような極悪人なのに格好良い犯罪者の役が良いと語っている*324

※「来生たかお推薦コンテンツ」内の「映像(映画・ドラマ) 」も参照の事

読書

心理、思想、哲学関係では、岸田秀、丸山圭三郎、竹田青嗣等の書籍を好む*325。また、米長邦雄や羽生善治等の対談本やエッセイ、棋士を描いたドキュメントや小説等、趣味の将棋に関する書籍も愛読している*326。好きな作家として他に、向田邦子、山口瞳、川本三郎、半藤一利、小沼丹の名を挙げている*327。元々寝付きが悪い事もあり、就寝の前に読書をするのが日課で*328、その際に読めない漢字や知らない言葉が出て来ると辞書で調べるという*329

※「来生たかお推薦コンテンツ」内の「書籍」も参照の事

犬の散歩

散歩の最中にメロディーを考えたり、歌詞を諳んじたりする事があるという。東京都内にある小金井公園を散歩コースの1つにしており、園内の売店で販売しているコロッケがお気に入りとの事で*330、同売店では一時期「来生たかおさん推薦コロッケ 1個100円」との謳い文句が使われていた。

その他

1980年代後半、スタッフはコンサートの後によくビリヤードで遊んでいたが、1988年の1月(?)それまで不参加だった来生が偶々やってみた所、それ以降、泊まり掛けのコンサートの時は食事もそこそこにプレイするようになった*331。また、1989年頃(?)、来生家ではトランプのページワンをよくやっており、その影響で一緒に遊ぶようになったスタッフがコンサート後に急遽トランプを購入しに行く事もあった*332

素潜りをやっていた時期があり、1986年は伊豆や屋久島に潜ったという*333。また、編曲家の松井忠重に誘われ、松井の実家のある茨城県大洗町で1度だけ釣りをした事があるが、寒い時期に小舟で沖まで出た為、海に向かって用を足す羽目になったと回顧している*334

自動車

愛車は、10代の頃から好きだった「ミニ・クーパー」で*335、運転をするのならば同車と決めていたという。また、来生えつこのボーイフレンドが乗っていた「スバル360」も好きだったという*336

折りに触れ、免許証を取得したい旨を口にしていたが、将来的にはもっと楽に取得出来るシステムになるだろうと考え、専ら夫人の車の助手席に陣取っていた。一方で、早く取得して親子でドライブをするのが夢だとも語っている*337。免許証を持っていなくて良かった事、困った事を訊かれた際、前者は加害者にならない事、後者は家族旅行をした時に夫人から嫌味たっぷりに「運転、代わって」と言われた事と述べている*338

1999年の夏、偶々井上陽水の誘いで食事をした際に「まだ免許取ってないの? 取らなきゃ駄目だよ」と言われ、夏休みの時期が過ぎれば教習所は空くであろうし、50歳を過ぎたらもう取得する事はないだろうと考えていた為、これが大きなきっかけになり*339、48歳で一念発起をして一発合格を果たした。ちなみに、井上も長らく車の運転をしなかったが、1991年に免許を取得している。

来生は、この会食の数日後には自動車学校に通い始めている。とにかく早く絶対に1回で終わらせたいと思った来生は、学科の授業を入れられるだけ入れ、約20日間で所得した。結果が分かった際、あれ程ほっとした体験は久し振りだったと語っている*340

井上は、上記の会食後、来生を帰路の途中まで自分の車で送った事実を引きつつ、万事変化を望まないイメージの来生が運転を始めた意外さに言及している*341。また、オリジナルアルバムDear my company』に作詞及びコーラスで参加した際、ミニ・クーパーの座席にギルバート・オサリヴァンのCDケースがさりげなく置かれていた事に気付いたという*342

ちなみに、歌手デビュー20周年の際、スタッフから記念として電気自動車をプレゼントされたという*343

ペット

来生が物心を付いた頃から家に猫が居り、野良も含めて10匹近くが集まった事もあったという。来生えつこが務めていた虫プロ商事の社屋に捨てられていた事から名付けられた“むしぷ”は、既に“ミスボ”“ステネ”という猫がいた為に一旦は来生えつこの知り合いの女性漫画家に引き取られたが、郷里に帰る事になった為、来生家で飼われる事になった。“むしぷ”は発育に問題があり、何とか妊娠はしたものの死産で終わるなど、来生は面倒を見る事が多かったが、それ故に特別な猫だった。その後も“ヌル”という猫も加わり、長年に亘って猫に接して来た来生はかなり猫に詳しくなったという。ちなみに、“ミスボ”は友達から引き取った時に雨に濡れてみすぼらしかった故に名付けられ、“ステネ”は捨て猫の略称だった*344。来生は特技の1つとして「蚤取り」を挙げている時期があった*345

1985年頃、来生えつこが東京都の鷺宮に在住していた頃、隣家が棋士の米長邦雄だった事が縁で雑種の子犬を貰い*346、“ヨネ”と名付けて飼い始めたが*347、1年くらいで突然亡くなってしまう*348。1988年には、1月11日に貰ったという理由で犬に“イチ”と名付けている*349

その後、飼い始めたゴールデンレトリバーは、まるまると太っていた事から“マル”と名付けられ*350オリジナルアルバムAnother Story』のブックレット等に登場したが、後に肝臓癌を患い*351 、1998年9月16日に亡くなった。来生は、最期に痙攣を起こしたその姿が可愛そうで見ていられなかったという*352 。しかし、シーンとした自宅に帰る度に「本当に居ないんだな」と寂しく感じるようになった来生は、1999年に飼い始めた同犬種に再び“マル”と名付けた*353

来生は、猫を飼っていた頃の癖が抜けないのか、犬を躾ようとしても途中で飽きてしまい、猫可愛がりをしてしまうと述べている*354 。自身の子供に対する時と同様に、人間よりも遥かに自然に近い存在の猫や犬に無理強いをするのが好きではないという*355

また、2002年末(2003年頭?)にはミニチュアダックスフントの“ミミ”も飼い始めた。来生夫妻の寝室で一緒に寝るのが日課だったが、やがて老年に差し掛かった“ミミ”を押し潰し兼ねないと危惧し、夫人は別の部屋で寝る事にしたという*356。また、2階にある寝室へ向かう際、来生に助けを求めるかのように階段の途中で立ち止まって声を出すようになり、その姿を見て涙が出そうになると語っている*357。なお、“ミミ”の姿はオリジナルアルバムavantage』『ひたすらに』のブックレット等で見られる。

「来生」という苗字

1974年の初提供曲「酔いどれ天使のポルカ」(1974)では、姉弟共に本名の表記「来生悦子」「来生孝夫」を用いていたが、1975年の提供曲「うわのそら」「終止符」及び1977年の提供曲「青春レース」では、「きすぎえつこ」「きすぎたかお」と平仮名表記になっている。歌手デビュー後は現在の表記「来生えつこ」「来生たかお」になったが、レコードジャケット(アルバムでは主に帯)には必ず苗字に仮名が振られていた。振り仮名が消えるのは大ヒットしたシングル曲「夢の途中」(及びアルバム『夢の途中』)からで、一躍メジャーな存在になった事による細やかな変化である(ローマ字による表記はこれ以降も頻発している)。なお、現在の表記に落ち着いた理由について来生は「苗字が読み難いから名前は平仮名にしたら」と言われたと述べている*358

幼少期には苗字に含まれる「きす(=Kiss)」という響きに関してからかわれた事があり*359、来生えつこも同様に苗字に関して様々な苦労をした過去があるという*360。女優の杉田かおるは、子供の頃「キスギタカオル」と呼ばれてからかわれた事があったという*361

来生えつこの考察によれば、上杉謙信の家臣であった木次(来次)出雲守(きつぎ・いずものかみ)が来生家の起源であり、武士の身分を捨てた木次が酒田(現・山形県酒田市)に定住する際、「新たな未来を生きる」というような意味合いで「来生」と改名した事に由来するという(姉弟の父親は山形県の出身である)。また、木次の百官名である「出雲」(現・島根県の一部)には、「木次(きすき)」という地名が存在する*362

家族

夫人との出会いは、夫人が勤めていた会社の上司が「うちで経理をやっている売れ残りが居るから*363」と、友人である来生えつこに紹介したい旨を伝えたのがきっかけだった*364。1978年5月12日、石川セリとのジョイントコンサートの楽屋に来て貰った際、来生は「この人は僕の嫁さんになる人だ」と感じたという(ちなみに、夫人はそうは思わなかったらしい)*365。山形弁とお尻の大きさに魅かれた来生は*366、全く気を遣う事もなく自然に交際が始まり、デートはカツ丼を食べてテレビゲームかパチンコをするのが専らだったと述べている*367

やがて、来生えつこの「28歳が良縁」という占い通り、1979年10月9日に入籍をした。プロポーズの言葉は「今は音楽より君の方が好きだ」だが*368、自分でも気障だったと回顧している*369

東京は中野サンプラザで挙式した*370。来生は夫人の事を「ママ」、夫人は来生の事を「お父さん」と呼んでいる*371。また、夫人を花に例えると「都忘れ」で*372、その存在を称して「ご飯みたいなもの(=飽きない)」と述べている。

音楽評論家の富澤一誠によれば、結婚当時、来生がステージに登場すると客席から祝福の声が掛かり、照れ臭そうに「いやぁ……結婚、しちゃったんです」と応えた来生は、学園祭に招かれて会津若松に向かう電車で6時間も立ちっ放しだった事や、あまり子供を作らない方が良い事等を語ったという*373

元々は子供が苦手で、照れも手伝い、騒がしい他人の子供にどう接すれば良いのか分からなかったが、自分に子供が出来てからは接し方が解って来たと述べている*374。旅に出て親子連れを見るとジーンと来て早く帰宅したくなり、子供に「お帰りなさい」と言われた時には「本当に生きていて良かった」「今、幸せだなぁ」と思え、その可愛さに何をされても怒れずに許してしまったという*375。幼い子供がまだ寝ている時にはピアノやステレオの音に気を遣い、駄々を捏ねる時には録画しておいたNHK教育『おかあさんといっしょ』を観せて気を逸らしていた*376。子供と離れるなど考えられず、もし夫人が別の男性に気が行って離婚する事になっても子供は引き取ると明言している*377。ちなみに、長男(哲平)は2歳当時、沢田研二やシブがき隊の大ファンで、父親がテレビに登場しても余り関心を示さなかったという*378

結婚や出産を経た事で、それまでの「なんとかなるさ」というずぼらな生き方から、家族の為に頑張る姿勢が生まれたと語っている*379。また、家族をマスコミに出すのは嫌だが、自分の親孝行の為にフジテレビ系『オールスター家族対抗歌合戦』には出たいと語っていた*380(実際には実現させていない)。

音楽的嗜好と影響

The Ventures/ザ・ベンチャーズ

中学2年生の頃にザ・ベンチャーズのエレキサウンドに魅了され、ファンクラブに入会している*381。生まれて初めて買ったレコードは同バンドの「十番街の殺人」で*382、1日に何十回も聴いていた*383。テレビ朝日の『モーニングショー』に同バンドが出演すると知り、仮病で学校を休み、オープンリールのテープで録音を試みた事があるという*384。この頃は他に寺内タケシとブルージーンズ等のインストナンバーを好んで聴いており、まだ「歌入り」の音楽に興味を持っていなかった。

The Beatles/ザ・ビートルズ

ザ・ベンチャーズ等のインストゥルメンタルものに魅かれていた頃は歌が邪魔に感じ、最初はザ・ビートルズが好きではなかったという*385。1966年、同グループの日本公演に足を運んでいるが、これは、同グループのアルバム『Rubber Soul』にこれまでのバンドとは異なる魅力を感じた来生えつこが、その事を弟にも気付かせたいと思い、都合で同行できなくなった友人の代わりに誘ったものだった*386。本格的に熱中し出したのは自身が歌手デビューをしてからの事で、全てのアルバムを買い揃えたが、擦り切れるまで聴いた為、2回買い直し、『Rubber Soul』に至っては3回も購入した*387。特にポール・マッカートニーの作品を敬愛するようになる(リンゴ・スターの名も挙げている*388)。

Gilbert O'sullivan/ギルバート・オサリヴァン

偶々ジャケットが気に入って購入したギルバート・オサリヴァンのシングル「No Matter How I Try/さよならがいえない」や、米軍の放送局「FEN(Far East Network)」で初めて聴いた「Alone Again(Naturally)」*389「Clair」等に、探し求めていたものに出会えたという意味で大きな衝撃を受け、オサリヴァンを「大明神」と称する程に崇める事になり、その楽曲(特に「Clair」)をモチーフに作った楽曲も多く、またその初期のスタイルを模した衣装でアルバムのジャケットを飾ったり、同様の衣装で「Alone Again(Naturally)」「Clair」をカヴァーした事もあり*390、ビジュアル的にも多大な影響が窺えるが、これには「四畳半フォーク」に馴染めず、弟の作るお洒落なポップスのイメージを強く支持していた来生えつこの「長髪にジーンズというスタイルだけは避けたかった」という意向も反映されていると思われる*391

流行歌

来生家がテレビを購入した小学校3年生の頃、井上ひろしが歌った「雨に咲く花」を聴いて愛唱歌になり、その後のコンサートやテレビ番組で幾度となく同曲を披露している。歌詞の一節「ままになるなら」の意味が解らず「お母さんになるのか?」と思った事、井上がビブラートを利かせる時に上下に動く喉仏が面白かった事等、思い出を語り*392、2008年には同曲や、生まれて初めて購入した邦楽のシングル盤「ギターをひこう」(歌唱:加藤登紀子)、平岡精二作品等のカヴァーを収録したオリジナルアルバム余韻』をリリースし、前述の海外アーティスト以前に昭和歌謡の影響もある事を公言している。実父が好きでよく歌っていた三橋美智也は、日本の男性歌手のベスト3に入るとして、「古城」「達者でナ」「別れの磯千鳥」等をコンサートで披露した事がある*393

美空ひばり

来生はジャズシンガーとしての美空に魅せられており、最も好きな楽曲として中学生の頃に初めて聴いた「Stardust」を挙げ、難しい歌を見事な英語で歌い上げていると称賛している*394。美空と実際に対面したのは、1983年に楽曲提供が実現した際の、美空邸への訪問時、レコーディング時、フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』(1983.07.04)共演時の計3回だという*395

その他

好きなアーチストや楽曲として、フランシス・レイ(フランス映画『13 Jours en France/白い恋人たち』のメインテーマ)、ヘンリー・マンシーニ(「Moon River」)、バート・バカラック(「Raindrops Keep Fallin' On My Head/雨にぬれても」)、エミット・ローズ、マイケル・ジョンソン等を挙げている*396。「無人島に持って行く1曲」を問われた時は、映画『Plein soleil/太陽がいっぱい』のメインテーマ(作曲:ニーノ・ロータ)を選び*397、古今東西の楽曲の中で1番好きだと語っているが、別の番組では「Moon River」を一番好きな楽曲としている*398。また、「泣ける曲」としてナルシソ・イエペスの「禁じられた遊び」を挙げている*399

1930年代から1970年代のポピュラーソングやクラシックから刺激を受ける事が多いという*400。上記以外にも、海外のフォークソング(ピーター・ポール&マリー、ブラザース・フォア等)やシャンソン(ジリオラ・チンクエッティ、ボビー・ソロ、シャンソン・ガイヤルド等)、ヴォーカリスト(ディーン・マーティン、パット・ブーン、ドリス・デイ、コニー・フランシス、ジュリー・ロンドン等)、そして日本のグループサウンズ(ザ・ランチャーズ、ワイルドワンズ、ザ・タイガース、サベージ等)の他、ザ・ビーチ・ボーイズ、サイモン&ガーファンクル、ブレッド、バッドフィンガー、ハリー・ニルソン、ランディ・ニューマン、エルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、キャロル・キング等を挙げ、シルヴィ・ヴァルタンの「アイドルを探せ/La Plus Belle Pour Aller Danser」には痺れたという*401

クラシックには「何百年も前にこんなに美しいメロディーが作られているのは悔しい」と感じつつ刺激を受けるという*402。好きなクラシック曲には「悲愴」というタイトルが付いているものが多く、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノソナタ、ピョートル・チャイコフスキーの交響曲等をよく聴いていたという*403

ジャズは苦手だが、フランク・シナトラ、アンディ・ウィリアムス、ナット・キング・コール等の「歌もの」や、リチャード・ロジャース 、コール・ポーター*404、アーヴィング・バーリン*405等の作曲家は大好きだという。

音楽的志向の違いはあるものの、岡林信康の歌声や楽曲(「山谷ブルース」「友よ」「チューリップのアップリケ」等)が好きで*406、年長の岡林が還暦になってもパワフルに歌う姿を見た際には、自身の音楽的なモチベーションが高まったと述べている*407。また、週刊誌から依頼された美空ひばりに関する取材で、その対談相手の候補に岡林の名が挙がっている事を聞き、来生は興味をそそられて承諾したという(実際の対談は、テレビプロデューサーの石井ふく子と行われた)*408

メロディーに関しては、1970年代で出尽くしており、1980年代以降、鳥肌の立つ名曲はほとんどないと語っている*409。そんな中でも、安全地帯の「ワインレッドの心」は凄いと語っている*410

80年代はテレビでの露出が多く、浸透度の高いアイドルに上質なものを提供したいという思いがあった*411。来生は、当時のアイドルが封建的で下世話な楽曲を歌わされていると感じており、その例として、近藤真彦の初期作品を多く手掛けた筒美京平は凄い作曲家だが、孤軍奮闘の為「ギンギラギンにさりげなく」以外に名曲はなく、良い作り手が少ない現状を憂いている*412。ちなみに、山下達郎が作曲した「ハイティーン・ブギ」はかなりの名曲と称えている*413

アーティストの分析

他作家の楽曲には音楽理論的な見地から関心を寄せる事が多い。小林亜星作曲の「ギターをひこう」(歌唱:加藤登紀子)、加山雄三(弾厚作)作曲、歌唱の「君のスープを」等では、その転調の面白さを語り*414、1999年にエルヴィス・コステロが歌った「She」には「好きな1曲で、最初のメロディーは良いが、後半はちょっと残念」という感想を述べ、また、当初は全く新しい曲だと思っていたが、カヴァー(シャルル・アズナヴールによる1974年の作品)だと分かり、がっかりしたという。これは往年のようなシンプルで良い曲が近年に現れたと感激していたからである*415

ギルバート・オサリヴァンに関しては、コード、メロディー、構成が意外な展開を見せる点、ジャズのコードを用いながらポップ調に仕上げる点、1曲の中に多様なエッセンスを贅沢に入れている点等をその魅力として挙げており、自らの声質に合う美しいながらもシンプルなコード進行やメロディーであるポール・マッカートニーの作品より凝っていて*416、専門的な音楽的教養から生み出されるバート・バカラックの作品よりも面白いと分析している*417。更に、ヴォーカルフィーリングや、2拍、4拍を強調するリズミックなピアノ演奏にも言及し*418、独創的なセンスを持った「最後のシンガーソングライター」とも評している*419

関連エピソード

編曲家「矢倉銀」

編曲を手掛ける際に使用するペンネームの「矢倉銀」は、将棋好きの来生が、将棋の戦法(囲い)の1つである「矢倉囲い」と「銀将」を掛け合わせて作ったもので、「夜の底へ」で初登場した。作曲家名として使おうと考えた事もあったという*420。なお、マネージャーやスタッフが来生の行方を捜す際、パチンコ屋に電話を掛けてこの名前で店内放送をして貰っていたが*421、もうこの方法は使えなくなったという*422

ステージ衣装

アルバムジャケット等では、初期のギルバート・オサリヴァンを意識した衣装を着用しており(『By My Side』『遊歩道』『SOMETHING ELSE』等)、ステージでも再現した事がある(『来生たかお マンスリーソロライブ Stand Alone Another Side』)。1990年代まではスーツ姿やカーディガン姿が多かったが、2000年代以降は一時期ベストが定番になり、その後は再びスーツやカーディガンを着用している。

1988年、男子プロテニス選手のミカエル・ペルンフォルスをイメージして髪を短くしたが、オジサン臭くも感じた為、同年のコンサートやテレビ番組(日本テレビ系『24時間テレビ「愛は地球を救う」11』)では伊達眼鏡を着用した*423。また、2014年の公演からは老眼鏡を着用するようになった。

バックバンド

音楽喫茶をメインに活動していた頃は、まだ専属のバックバンドが存在せず、安西史孝、板倉雅一、椎名和夫、佐久間正英、吉田建、平野肇等が機会的にサポートをしていた。

専属のバックバンドは、1982年に「Win 9」という名で結成され、1984年に「スタートル」と改称した後、幾度かのメンバーチェンジを経た。なお、2010年からはステージでのメンバー紹介時に「スタートル」という呼称を用いていない。また、公演によってはイレギュラーなミュージシャンも加わっている。

来生は、バンドメンバーやスタッフの仲人や晩酌人、立会人を務めている。1986年には柿崎洋一郎の仲人*424、1993年にレコーディングプロデューサーの本間一泰が教会で式を挙げた際に立会人を務めている。その披露パーティーでは、新婦の熱望により「浅い夢」を歌ったが、ビールが入っていたからか冒頭の歌詞を失念してしまったという*425。また、同年に執り行われた松田の「2回目」の結婚式でも媒酌人を務め、披露宴では新郎の伴奏で「夢の加速」を、ピアノの弾き語りで「浅い夢」を歌って祝福している(ちなみに、この時は山下達郎もピアノの弾き語りで祝福している)*426。更に同日、作詞家の前田たかひろの披露宴にも登場し、「二人の場所」を歌ったという*427

1976197719781979
バンド名※該当なし
キーボード
(またはピアノ)
?安西史孝*428安西史孝?*429安西史孝?*430
?板倉雅一*431柿崎洋一郎*432
ギター?椎名和夫(アレンジも担当)*433?
ベース?佐久間正英*434??
?吉田建*435
ドラム
(またはパーカッション)
?平野肇*436?


1980198119821983198419851986198719881989
バンド名※該当なしWIN 9スタートル
キーボード
(またはピアノ)
坂下秀美?松田真人
柿崎洋一郎柿崎洋一郎柿崎洋一郎
嶋田陽一田原音彦加藤実
ギター熊木敏郎?法田勇虫鳴海寛荒木博司
ベース小林大介?杉征夫多田文信
ドラム
(またはパーカッション)
五代儀彦秀?村田勝美永田敬一河野道生松本照夫
野口明彦


1990199119921993199419951996199719981999
バンド名スタートル
キーボード
(またはピアノ)
松田真人
加藤実山崎教昌
ギター荒木博司土屋潔土屋潔
立山健彦立山健彦
井上哲也
ベース多田文信多田文信井上哲也多田文信
井上哲也井上哲也
ドラム
(またはパーカッション)
松本照夫吉尾公弘吉尾公弘?吉尾公弘野口明彦松本照夫
井野浦英雄野口明彦上森武美


2000200120022003200420052006200720082009
バンド名スタートル
キーボード
(またはピアノ)
松田真人鹿島伸夫松田真人山崎教昌
山崎教昌
ギター土屋潔土屋潔
小田木隆明
ベース千葉一樹?千葉一樹安田英司
ドラム
(またはパーカッション)
佐藤武美?佐藤武美佐藤武美
佐藤唯史


2010201120122013201420152016201720182019
バンド名※バンド名なし
キーボード
(またはピアノ)
山崎教昌山崎教昌山崎教昌山崎教昌
柿崎洋一郎紺野紗衣
ギター塚本史朗RYUMEI
RYUMEI
ベース安田英司藤谷一郎※該当なし藤谷一郎
ドラム
(またはパーカッション)
佐藤武美佐藤武美桜井正宏長谷部徹桜井マサヒロ
(桜井正宏)
波多江健桜井マサヒロ
(桜井正宏)
佐藤唯史
桜井正宏桜井正宏桜井マサヒロ
(桜井正宏)


2020202120222023202420252026202720282029
バンド名※バンド名なし
キーボード
(またはピアノ)
山崎教昌
ギターRYUMEI
ベース藤谷一郎
ドラム
(またはパーカッション)
桜井マサヒロ
(桜井正宏)

※来生自身のコンサートに参加したミュージシャンのみを記載(イベントや他のアーティストのコンサートにゲスト出演した際の共演ミュージシャンやオーケストラは割愛)
※小田木隆明は、途中でアーティスト名を「RYUMEI」に改称。
※桜井正宏は、名前の表記が漢字と片仮名が混在している。

※参加年不明のミュージシャン(レコーディングも含む)=池沢由香子(Piano〈ディナーショー〉)/包国充(Sax)/後藤真和(Bass)/津垣博通(Piano)/都筑章浩(Percussion)/津村泰彦(Guitar/Recording)/柴田英貴(Drums)/常富喜雄(Guitar?)/david koo(Bass)/西平彰(Keyboards)/林仁(Guitar)/マーク・イースト(Guitar?)/みつとみ俊郎(Flute)/山口とも(Percussion〈2001.07〜〉)/渡辺美帆子(Piano)

ファンクラブ

1979年9月27日に最初のファンクラブが発足した。来生は、年齢的に照れ臭く思いながらも、ファン側の提案で始まった事は嬉しく、女性だけでなく男性にも参加して貰えたらもっと嬉しいと語っている*437

オリジナルアルバムNatural Menu』のLPの帯でファンクラブ発足の旨が告知され、以降、LPやCT、CD等で会員が募られた。会報は「キティサークル(キティレコード所属アーティストの総合ファンクラブ)」の総合誌『BACK STAGE PASS』として毎月25日、会誌は年1回、写真集は不定期の発行が予定され、また数々の入会特典(ファンの集いを年に2回開催、コンサートチケットやレコード、出版物の割引販売、オリジナル商品の販売、新譜リリース前のレコードコンサート等)が企画された。

1981年、ファンクラブ名が「TAKAO CLUB」となり、会報は『HEAD ROCK』に改称され、1984年には会員証が作成された。1988年には、来生専用の会報『égalité』が隔月で発刊され始めた。

1998年7月、オフィシャルファンクラブ名が「TAKAO CLUB」から「来生たかおインフォメーションデスク」になり、会報も『égalité』から『別冊 来生たかお』に改称され、年4回の発行になった。

2000年1月、ファンクラブ活動及び会報の発行が終了し、以降はオフィシャルサイトで様々な告知がなされるようになった。

1983年6月4日、初めてファンの集いが開催され、1987年には来生がテニスを始めた事でファンの集いがテニスツアーになった。また、1990年代にはシンガポール、グァム、ハワイ等でも行われた。

1990年代の会員募集要項では、年会費は4000円になっており、会員証や会報『égalité』の発行、コンサートチケットの優先販売、ロゴ入りペーパーファイルの進呈等が、入会特典として記載されている。

印税

作曲家の印税は世間で思われている程の金額ではないと発言しているが*438、1991年において、来生自身の名義での売印税収入は例年約5000万円で、作曲印税及び歌唱印税が全体の7割を占め、カラオケの著作権印税は1割と語っている*439。また、「これ以上稼いでもほとんど税金で持って行かれるだけ」と述べている*440

ちなみに、共にヒットした『セーラー服と機関銃』『夢の途中』の、それぞれのB面曲『あたりまえの虹』『美しい女』を作詞した、小椋佳と山川啓介は、A面と同額の印税収入があり、来生に感謝の意を表している*441*442

楽曲のプレゼント

来生は、関係者等の結婚披露宴に出席出来ない場合、楽曲を贈るという。来生えつこの野球チーム「ビコーズ」のメンバーの時は「いとしい あした」をプレゼントしたが*443、来生えつこのマネージャーの時は、来生えつこ並びに発起人の要望で完全なオリジナル曲を作る事になり、披露宴までにばたばたと作業に取り掛かったという*444。ただ、来生えつこは、メロディーはとても良かったが、いつものように事前にチェックをする人間がいなかった歌詞はそれに負けていると感じたという(この歌詞は、オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51(ベイシック/1997.06)に掲載されている)*445。また、アルバムへの収録や提供も考えており、「大きいけれど切ない曲調」に合わせて歌詞を書き改める事も考えていた(その後、実現していない模様)*446

幻の楽曲

雑誌のインタビュー等によると、楽曲を提供した(する)アーティストとして、1977年頃に沢田研二、中村晃子*447、1980年代に近藤真彦の名が挙がっているが、該当する作品は見受けられない。

来生は、1988年に6曲入りくらいのミニアルバムを制作する案があり、2分程の単純明快な構成、編曲の楽曲をスタートルの演奏で収録したい旨を述べているが*448、それに該当する作品は見受けられない。

小椋佳によれば、吉永小百合が主演を務めた松竹映画『女ざかり』(1994)の主題歌を共作したが、採用されなかったという*449。来生は、吉永小百合のシングル盤のB面に収録された筈だと語っているが*450、吉永へは1984年に「ひとりに染まる」(作詞は来生えつこ)を提供した以外、上記に該当する楽曲は見受けられない。

クリスマス公演

1988年リリースのオリジナルアルバムWith Time』に収録された「Made In X'mas」は、クリスマス公演の定番曲になっており、曲間や曲終わりでクラッカーや風船(の落下)等の演出が行われている。正式に演出がなされたのはコンサートツアー『来生たかお Concert Tour '94〜'95 Another Story』においてだが、その数年前から一部のファンが自主的にクラッカーを鳴らすようになっていた*451。当初は当惑していた来生やその関係者も次第に演出の一部として積極的に協力を求めるようになっていたが、消防法の絡みから「黙認」という形になり、最終的には制作側が用意するようになった*452

紅白歌合戦

1982年、NHKから『NHK紅白歌合戦』への出演の依頼が来たが、出演すると今年で人気が終わりのような気がするのと、大晦日は家でゆっくりしたいとの理由で断ったという*453。ちなみに、この年の同番組では桜田淳子が「セーラー服と機関銃」を歌っているが、この「代演」は薬師丸ひろ子が学業に専念する為に芸能活動を休止していたからというのが理由らしい。

「音楽」以外の仕事

夢の途中」がヒットした頃、TBSドラマ『2年B組仙八先生』の出演の話が舞い込んだが、音楽以外の仕事をする気にはなれないとの理由で断っている*454。ただし、1998年4月3日に放送されたTBS系ドラマ“柴門ふみ”スペシャル『新・同棲時代』には、台詞はないもののドラマ出演を果たしている。全編を通じて来生メロディが使用されており、また、劇中のライヴシーンでは来生自身も「夢の途中」を歌っている。

また、FM横浜からレギュラー番組(ニューミュージック系アーティストのライヴを収録し、その本人をスタジオに招く内容)の依頼があり、事務所スタッフは盛り上がったが、来生は辞退したという*455

1999年6月、一般公募による宝塚記念の新ファンファーレの選考委員を務めている。同年の7月11日には、宝塚記念が開催された阪神競馬場(兵庫県)内のFM番組に出演し、パドックにおいて斉藤由貴とトークショーも行っている。

取材

デビューして暫くは音楽雑誌の取材が多く、「夢の途中」「セーラー服と機関銃」のヒット以降はそれが一般紙まで広がったが、発言していない事柄が書かれていたり、面白可笑しく曲解されていたりと、その内容に不満を抱くようになり、なるべく取材を受けたくないと思うようになったという*456

アルバムが出来るまで

以下、ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27に掲載された『Passage』の制作過程を参照にした。

*企画
レコード会社のディレクターと曲調を打ち合わせる。基本的に来生自身が歌いたいと思う感じに落ち着く。

*デモテープ作り
ディレクターから催促や確認の連絡が入る。ディレクターが直接、来生の下へ赴き、デモテープを受け取る。来生邸の玄関の自転車の籠に入れられている事もあるという。まだ歌詞は付いていないが、来生によるハミングが入っている。また、ある程度のアレンジもなされている。楽曲が揃い始めると、ディレクターから「アップテンポの曲が欲しい」等の注文が入る。

*作詞
来生からも意見が出るが、最終的には来生えつことディレクターで詰めて行く。

*編曲
録音日が設定され、編曲家との打ち合わせをする。大体の方向性、テンポ、使用したい楽器等は来生本人から意見が出る。デモテープはある程度アレンジされているので、感じは掴み易いという。まだ楽曲にタイトルが付いていないので、「KISUGI」の頭文字を使って「K-1」「K-2」という通し番号が用いられる。次回の制作時には、再び同様の通し番号が使われる。

*レコーディング
まずは、基本的な楽器を録音する(リズム録り)。同時に来生がメロディを歌い、テンポや感じを見る。この段階では、まだ歌詞が出来ていない事が多い。多くて1日に2曲程度が録音される。翌日以降、ストリングスやシンセサイザー等の楽器を重ねて行く(カブセ)。

ヴォーカルを録音する(唄入れ)。来生えつことディレクターは、直前まで電話やファックスでやり取りをする。通常、3テイク程を録音し、そこからベストテイクを選択する。

*トラックダウン
通称「T.D.」。1つ1つ別のトラックに入っている楽器やヴォーカルの音量、音色を決め、最終的にステレオの2チャンネルにする。

*ジャケット撮影
トラックダウンの段階と同時進行で、撮影場所のロケハン等が行われる。その後、写真選び、デザイン、色校正等が行われる。

*マスタリング
音源の編集作業が行われ、プレス工場へ送られる。

コンサートが開催されるまで

以下、オフィシャルファンクラブ「来生たかおインフォメーションデスク」の会報『別冊 来生たかお』1998夏の号に掲載された『来生たかお コンサート'98 メロディー・メモリー』のスケジュールを参照にした。

*企画
イベンターからのオファー、または所属事務所自体のプレゼンテーションにより、いつ何処でどういうかたちで行うのかという大枠を決定する。

*スケジュール押さえ
バンドメンバー、スタッフ等に開催場所や日時を連絡する。

*選曲
曲順も含め、基本的に来生自身が決定するが、スタッフ側から開催場所の条件等を考慮した助言が入る事もある。

*アレンジ
以前は、バンドマスターの松田真人が多くを担っていたが、氏の脱退(2008年3月)以降は来生自身の他、キーボードの山崎教昌やギターのRYUMEIも加わっていると思われる。

*リハーサル
参加メンバー皆で原曲のCDを聴き、実際に来生が歌いながら演奏の修正点を改善する。同時に、開幕のタイミング、来生の登場の仕方等の演出、照明、音響等の機材を決定する。

*当日
ステージに地絣(じがすり=舞台上に敷く布)を敷き、ライトバトン(照明を吊るす棒状のもの)に照明機材を吊るし、スピーカーを設置し、客席にはミキサーや周辺機器を運び入れ、スピーカーのチューニング、照明のシュート(当たりを合わせる作業)を経て、リハーサルを開始する。まずはバンドと共に行い、その後、来生は弾き語りの練習をする。本番10分前、それぞれの持ち場に着き、幕が上がる。

物真似・替え歌

伊集院光
TBSラジオ『月曜JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』(2006.10.16)にて、星泉のパロディで「セーラー服と機関銃」の替え歌を歌っている。

蛍原徹(雨上がり決死隊)
TBSラジオ『水曜JUNK 雨上がり決死隊べしゃりブリンッ!』のワンコーナーで、「セーラー服と機関銃」をワンフレーズのみ替え歌を歌っている。

関根麻里
日本テレビ系『ものまねバトル2006最終決戦 オール新ネタ大感謝祭スペシャル!』(2006.12.18)において、セーラー服姿で「セーラー服と機関銃」を歌っている。

*'城之内早苗''
フジテレビ系『第17回 爆笑!スターものまね王座決定戦スペシャル』(1995.03.28)において、「マイ・ラグジュアリー・ナイト」で歌い、しばたはつみとの共演も行っている。

ビジー・フォー
フジテレビ系『第4回 爆笑!スターものまね王座決定戦』(1988.11.29)にて、グッチ裕三が斉藤由貴、モト冬樹が来生を演じ、「ORACIÓN -祈り-」を歌っている。

その他

  • 1979年の秋、キョードー横浜が神奈川県横浜市の元町を中心に「横浜らしいアーティスト」というアンケートを集計した際、来生は第6位にランキングしている(第1位:山下達郎/第2位:松任谷由実/第3位:南佳孝/第4位:柳ジョージ/第5位:オフコース)*457
  • 東宝映画『だいじょうぶマイ・フレンド』(1983/出演:ピーター・フォンダ、広田玲央名 他)で、劇中に登場する外国人バンドが日本語で「シルエット・ロマンス」を演奏するシーンがある。
  • 徳間書店のアニメ雑誌『月刊アニメージュ』が主催する「アニメグランプリ」の「男性歌手部門」で、156票を獲得して第17位にランキングした事がある*458
  • 来生は「日本エイズストップ基金」の協力委員に名を連ねていた事がある。
  • 兵庫県新温泉町の湯村温泉にある、芸能・文化人の手形を数多く展示した「ふれあい手形散歩道」には、来生の手形も飾られている(柳通り上側、温泉橋〜繁栄橋区間)。
  • 2006年、林眞須美著/高橋幸春・長冨俊和編『死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら 林眞須美 家族との書簡集』(講談社)と題された書籍が刊行されている。来生は、この本をMCで取り上げて「シルエット・ロマンス」を披露した事がある*459。ちなみに、講談師の神田香織は「シルエット・ロマンスを聞きながら」と銘打ち、「和歌山カレー事件」を題材にした講演を行っている(神田香織著『3・11後を生き抜く力声を持て』(2014.04/インパクト出版会 )に収録)。
  • 歌謡シアター『ラムネ』の舞台シリーズ第3弾『夢の途中編』(2008.11.16〜24/作:広瀬格、板垣恭一/演出:板垣恭一/出演:小西遼生、佐藤美貴 他)で「夢の途中」(小西遼生の弾き語り)、「マイ・ラグジュアリー・ナイト」が歌われた。
  • 1960年代から1970年代の「日本のうた」を6人のクリエイターがミュージックビデオ風に映像化するテレビ番組、NHK Eテレ『うたテクネ』(2019.01.02)において、アニメーション作家の水尻自子が来生版の「マイ・ラグジュアリー・ナイト」を元に映像作品化している。同作品は、第6回「新千歳空港国際アニメーション映画祭」(2019年)の「ベストミュージックアニメーション」や、第23回「文化庁メディア芸術祭」(2020年)の「アニメーション部門 審査委員会推薦作品」等に輝いている。


*1 『朝日新聞』“基本は変わらずノスタルジー”(朝日新聞社/1995.11.25)
*2 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*3 『朝日新聞』“基本は変わらずノスタルジー”(朝日新聞社/1995.11.25)
*4 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*5 BS-i(BS-TBS)『KISUGI TAKAO STUDIO CONCERT 〜Day by day〜』(2002.02.15)
*6 コンサート(2007)のMC
*7 コンサート(2014)のMC
*8 TOKYO-FM『Live Depot』(2004.12.09)
*9 FM愛知『NDS presents 高嶋ちさ子 Gentle Wind』(2011.04.15)
*10 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属歌詞集“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*11 『月刊歌謡曲』1982年5月特大号“特集I 来生たかお”(ブティック社/1982.05.01)
*12 『月刊 サウンドレコパル』1981年9月号“読者参加企画 レコード名盤選 私の100枚 ボクをうならせた名唱のボーカル・アルバム”(小学館/1981)
*13 BS11『本番前@控室』(2012.11.09)
*14 『サンデー毎日』1992年8月2日号“この母にして… 今週の母――来生ユキ子(68)”(毎日新聞出版/1992)/石村博子著『この母にして…』(毎日新聞出版/1993.06.25)
*15 『サンデー毎日』1992年8月2日号“この母にして… 今週の母――来生ユキ子(68)”(毎日新聞出版/1992)/石村博子著『この母にして…』(毎日新聞出版/1993.06.25)
*16 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*17 BS11『本番前@控室』(2012.11.09)
*18 BS11『本番前@控室』(2012.11.09)
*19 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*20 『Mac Fan』2006年4月号“Pick Up Artist 来生たかお”(マイナビ/2006.02.28)
*21 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*22 『週刊文春』1991年5月16日号“行くカネ 来るカネ”(文藝春秋/1991.05.16)
*23 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*24 HFM『時の旅人 TIME TRAVELER』(2009.05.11)
*25 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*26 『高二時代』2月号“JK・INTRVIEW シンガー・ソングライター 来生たかお 音楽は仕事であり、趣味。心地よいメロディーを作りたい”(旺文社/1985.01)
*27 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*28 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*29 『オリコンWEEKLY』1981年12月25日号“PERSON TO PERSON”(オリジナルコンフィデンス/1981.12.25)
*30 NHK総合『ふたりのビッグショー 来生たかお&渡辺真知子』(1996.04.22)
*31 『高二時代』2月号“JK・INTRVIEW シンガー・ソングライター 来生たかお 音楽は仕事であり、趣味。心地よいメロディーを作りたい”(旺文社/1985.01)
*32 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*33 RKB毎日放送『ライブやろうぜ!』第31回(2002.07.09)
*34 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*35 『月刊Big Music』1982年10月号“来生えつこのお気に召すまま会見記 第6回 特別編 来生たかおVS来生えつこ”(講談社/1982)
*36 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*37 『中学三年コース』1984年10月号“青春トーク やっと姉と対等にやれるようになった”(学習研究社/1984.10.01)
*38 『新譜ジャーナル』1984年3月号“シンガー&ソング・ライター対談 倉橋ルイ子・来生えつこ”(自由国民社/1984)
*39 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*40 『新譜ジャーナル』1984年3月号“シンガー&ソング・ライター対談 倉橋ルイ子・来生えつこ”(自由国民社/1984)
*41 ニッポン放送『土屋礼央 レオなるど』(2018.12.03)
*42 『中学三年コース』1984年10月号“青春トーク やっと姉と対等にやれるようになった”(学習研究社/1984.10.01)
*43 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*44 『FMレコパル』1977年11月14日号“Target 少年のゆらめきが……来生(きすぎ)たかお”(小学館/1977)
*45 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*46 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*47 『月刊Big Music』1983年7月号“CITY TALK 来生たかおVS沢田聖子”(講談社/1983)
*48 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』(2015.12.19)のMC
*49 『月刊Big Music』1983年7月号“CITY TALK 来生たかおVS沢田聖子”(講談社/1983)
*50 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.3(キティ・ミュージック・コーポレーション/1988.08)
*51 オフィシャルファンクラブ「来生たかおインフォメーションデスク」の会報『別冊 来生たかお』1999春の号(ベイシック/1999.04.30)
*52 来生たかおオフィシャルサイト“来生たかお30周年記念インタビューavantage”(2005.10.26)
*53 『キーボードマガジン』1997年4月号“DEPARTMENTS 作曲の小部屋/来生たかお”(リットーミュージック/1997)
*54 RKB毎日放送『ライブやろうぜ!』第31回(2002.07.09)
*55 コンサート(2003年)のMC
*56 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*57 『キーボードマガジン』1997年4月号“DEPARTMENTS 作曲の小部屋/来生たかお”(リットーミュージック/1997)
*58 『eiga fan 映画ファン』1981年9月号“ヤングヒーローインタビュー”(愛宕書房/1981)
*59 『クロワッサン』1995年3月25日号“話をしたい あの本のこと。来生たかおさん◆鼻淵泪ジンハウス/1995)
*60 ニッポン放送制作『中村こずえのみんなでニッポン日曜日!』(2014.03.02)
*61 ニッポン放送制作『中村こずえのみんなでニッポン日曜日!』(2014.03.02)
*62 RKB毎日放送『ライブやろうぜ!』第31回(2002.07.09)
*63 ニッポン放送制作『中村こずえのみんなでニッポン日曜日!』(2014.03.02)
*64 『週刊FM』1983年1月3日号“ニュー・イヤー'83 今年、さらに大きな飛躍が期待できそうだ”(音楽之友社/1983.01.03)
*65 来生たかおトークセッション第3弾「岸田秀」(2006.11)(岸田秀著『官僚病から日本を救うために 岸田秀談話集』〈新書館/2009.05〉に収録)
*66 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1986年8月25日号 Vol.63“TAKAO CLUB VOL.34〈『来生たかお 10th ANNIVERSARY ELEVEN NIGHT THEATER』のMCから抜粋〉”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1986.08.25)
*67 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』(2016.03.19)のMC
*68 『キーボードマガジン』1997年4月号“DEPARTMENTS 作曲の小部屋/来生たかお”(リットーミュージック/1997)
*69 『GORO』1983年3月24日号“MUSIC STREET スペシャル・トーク 来生たかお VS 河合奈保子”(小学館/1983.03.24)
*70 RKB毎日放送『ライブやろうぜ!』第31回(2002.07.09)
*71 『GORO』1982年3月11日号“Go Rocking Interview 来生たかお”(小学館/1982.03.11)
*72 『GORO』1982年3月11日号“Go Rocking Interview 来生たかお”(小学館/1982.03.11)
*73 『月刊 BIG tomorrow』1983年3月号“楽屋裏のスターたち 第25回 ニューミュージック紳士録 来生たかお”(青春出版社/1983)
*74 『新譜ジャーナル』1983年5月号“来生たかお サウンドにノレばポップスってもんじゃないんです”(自由国民社/1983)
*75 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1986年8月25日号 Vol.63“TAKAO CLUB VOL.34〈『来生たかお 10th ANNIVERSARY ELEVEN NIGHT THEATER』のMCから抜粋〉”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1986.08.25)
*76 『明星』1977年3月号“ナイーブな曲作りの天才 来生(きすぎ)たかお”(集英社/1977)
*77 『FM fan』1983年8月15日号“FM PROGRAM SPECIAL 来生たかおVS悲愴”(共同通信社/1983)
*78 『ヤングセンス』春号“6年目の大ヒット。実力発揮のメロディー派”(集英社/1982.05.10)
*79 『新譜ジャーナル』1982年3月号“3 SPOT Interview. 僕はまだまだ“夢の途中””(自由国民社/1982)|『来生たかお Concert Tour '82 夢の途中…』のツアーパンフレット“ぼくはまだまだ“夢の途中””
*80 『YOUNG SONG』1985年3月号“人気作家インタビュー 第9回 ぼくのベスト・コレクション 来生(きすぎ)たかお 少年の心を忘れずに作りたい”(集英社/1985.03.01)
*81 『毎日新聞』“らっこ・アーティスト 来生たかお 余韻で紡いだ40年の夢”(毎日新聞社/2016.04.07)
*82 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』(2015.12.19)のMC
*83 『FMレコパル』1991年5月13日号“POPS*ROCK インタビュー&レビュー 来生たかお「永遠の瞬間〜モーメント〜」”(小学館/1991)
*84 『FMレコパル』1991年5月13日号“POPS*ROCK インタビュー&レビュー 来生たかお「永遠の瞬間〜モーメント〜」”(小学館/1991)
*85 ニッポン放送『土屋礼央 レオなるど』(2018.12.03)
*86 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.48(ベイシック/1996.12)
*87 TBSラジオ『中村雅俊マイ・ホームページ』(2003.02.11)
*88 来生たかおオフィシャルサイト“復活! 来生たかお トークセッション 第ニ弾”(2015.12.12)
*89 来生たかおオフィシャルサイト“復活! 来生たかお トークセッション 第ニ弾”(2015.12.12)
*90 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.43(ベイシック/1996.02)
*91 『YOUNG SONG』1982年4月号“'82 MUSIC PEOPLE インタビュー 第1回 “3万枚のカベ”を軽くやぶる、突然の大ヒット! 来生えつこ(作詞)と作るFriendly Popsの秘密は?”(集英社/1982.04.01)
*92 NHKラジオ第1『音楽夢倶楽部』(1999.11.20)
*93 『月刊Big Music』1983年7月号“CITY TALK 来生たかおVS沢田聖子”(講談社/1983)
*94 『週刊平凡』1986年2月7日号“吉見佑子のミス・マッチ・トーク シリーズ27 来生たかお”(マガジンハウス/1986)
*95 『オリコンWEEKLY 2月4日号』1983年2月4日号“PERSON 親子でもない。師弟でもない…。さて、美空ひばりと来生たかおの関係は!?”(オリジナルコンフィデンス/1983.02.04)
*96 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.26(1993.05?/ベイシック)
*97 『JUNON』1988年8月号“来生たかお、斉藤由貴 北海道、静内の牧場で。兄と妹のように。”(主婦と生活社/1988)
*98 テレビ東京系『そして音楽が始まる』(2002.09.01)
*99 TBSラジオ『中村雅俊マイ・ホームページ』(2003.02.10)
*100 『GORO』1983年3月24日号“MUSIC STREET スペシャル・トーク 来生たかお VS 河合奈保子”(小学館/1983.03.24)
*101 『GORO』1983年3月24日号“MUSIC STREET スペシャル・トーク 来生たかお VS 河合奈保子”(小学館/1983.03.24)
*102 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*103 コンサート(2003年)のMC
*104 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.15(キティ・ミュージック・コーポレーション/1991.01?)
*105 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.06)
*106 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.06)
*107 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー 来生たかお うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*108 NHK総合の音楽番組『ふたりのビッグショー 来生たかお&渡辺真知子』(1996.04.22)
*109 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*110 コンサート(2010)のMC
*111 TBS系『ザ・ベストテン』(1982.03.25)のインタビュー
*112 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*113 『GORO』1983年3月24日号“MUSIC STREET スペシャル・トーク 来生たかお VS 河合奈保子”(小学館/1983.03.24)
*114 TBSラジオ『中村雅俊マイ・ホームページ』(2003.02.10)|『朝日新聞』夕刊の芸能欄(1995.11.25)
*115 『映画情報』1982年4月号“ミュージック・コーナー 話題の歌手㉑ 来生たかお ヒットにとまどうマイ・ペースの音楽人生 ”(国際情報社/1982)
*116 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*117 『映画情報』1982年4月号“ミュージック・コーナー 話題の歌手㉑ 来生たかお ヒットにとまどうマイ・ペースの音楽人生 ”(国際情報社/1982)
*118 『ARENA37℃』1983年5月号“HOT-TIME 「音楽やってる人間は、音楽だけやってなきゃダメ」 他人の仕事が多かった来生たかおが、今年は自分の活動に力がはいってる!”(音楽専科社/1983.05.10)
*119 『オリコンウィーク・ザ・1番』1996年7月22日号“小池聡行と対談 連載第31回 感性Ichiban人間登場!! コーヒーとタバコがないといい曲は生まれないですね。”(オリコン/1996.07)
*120 TAKAO KISUGI LIVE 浅い夢から
*121 来生たかお40周年記念アルバム 来生たかおセルフカバーベスト「夢のあとさき」発売記念ミニライブ&握手会』のMC
*122 来生たかおソロライブ Stand Alone 2013』のMC
*123 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*124 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*125 『夕刊フジ』“小津と成瀬の良さが分かってきた”(産業経済新聞社/2005.09.28)
*126 文化放送『吉田照美のやる気MANMAN!』(2004.11.16)
*127 来生たかお Stand Alone 2012 Christmas Color』のMC
*128 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*129 来生たかお Stand Alone 2012 Christmas Color』のMC
*130 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*131 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.25(1993.02/ベイシック)
*132 富澤一誠著『あいつのクシャミ』““マネージャー泣かせ”で“女泣かせ”の逆立つ髪の毛”(飛鳥新社/1980.01.06)
*133 文化放送『セイコージョイントライブ』の事と思われる。
*134 富澤一誠著『あいつのクシャミ』““マネージャー泣かせ”で“女泣かせ”の逆立つ髪の毛”(飛鳥新社/1980.01.06)
*135 キティサークルの総合誌『BACK STAGE PASS』(キティ・レコード/1979.09.27)
*136 フジテレビ系『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1984.03.27)
*137 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*138 小椋佳トリビュートコンサート 夢歌詩、あるところに』(2008.05.31・06.01)のMC
*139 来生たかおのオフィシャルサイト“復活! 来生たかおトークセッション第一弾”(2015.10.01)
*140 FM COCOLO『THE MUSIC OF NOTE 来生たかお ノスタルジーへの誘い』(2016.07.17)
*141 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1987年9月25号? Vol.76“TAKAO CLUB VOL.46”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1985.09.25)
*142 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1987年9月25号? Vol.76“TAKAO CLUB VOL.46”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1985.09.25)
*143 NHK総合『ヤングスタジオ101』(1987.08.09)
*144 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』(2016.04.09)のMC
*145 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.13)
*146 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51(ベイシック/1997.06)
*147 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2(キティ・ミュージック・コーポレーション/1988.06)
*148 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.41(ベイシック/1995.10)
*149 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.44(ベイシック/1996.04)
*150 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*151 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*152 FM愛知『NDS presents 高嶋ちさ子 Gentle Wind』(2011.04.08)
*153 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*154 来生たかお Stand Alone 2015 Acoustic Tracks』のMC
*155 来生たかお Stand Alone 2015 Acoustic Tracks』のMC
*156 来生たかおソロライブ Stand Alone 2009』のMC
*157 コンサート(2008)のMC
*158 NHK総合『ふたりのビッグショー 来生たかお&渡辺真知子』(1996.04.22)
*159 NHK-BS2特番『スーパースターライブ「日本で一番、憂鬱でハッピーな一日」 -井上陽水シークレットライブ-』(1999.12.10)/NHK総合特番『井上陽水 secret Live 遊んであげる 今日だけ』(1999.12.26)
*160 TBSラジオ『小堺一機のサタデーウィズ』(2006.09.16)
*161 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*162 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*163 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*164 『週刊平凡』1986年2月7日号“吉見佑子のミス・マッチ・トーク シリーズ27 来生たかお”(マガジンハウス/1986)
*165 来生たかおソロライブ Stand Alone 2006』のMC
*166 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.26(1993.05?/ベイシック)
*167 来生たかお マンスリーソロライブ Stand Alone Another Side』(2006.11.24)のMC
*168 来生たかおソロライブ Stand Alone 2007』のMC
*169 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』のMC
*170 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.09.01)のMC
*171 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』のMC
*172 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.11.23)のMC
*173 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.09.01)のMC
*174 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.11.23)のMC
*175 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』(2015.12.19)のMC
*176 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*177 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.25(1993.02/ベイシック)
*178 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.25(1993.02/ベイシック)
*179 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*180 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*181 『週刊平凡』1986年2月7日号“吉見佑子のミス・マッチ・トーク シリーズ27 来生たかお”(マガジンハウス/1986)
*182 コンサート(2008)のMC
*183 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*184 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*185 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*186 BS日テレ『地球劇場 100年後の君に聴かせたい歌』(2015.12.12)
*187 『週刊平凡』1986年2月7日号“吉見佑子のミス・マッチ・トーク シリーズ27 来生たかお”(マガジンハウス/1986)
*188 『週刊平凡』1986年2月7日号“吉見佑子のミス・マッチ・トーク シリーズ27 来生たかお”(マガジンハウス/1986)
*189 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*190 FM愛知『NDS presents 高嶋ちさ子 Gentle Wind』(2011.04.15)
*191 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*192 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*193 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27(ベイシック/1993.06)
*194 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*195 『Hot・Dog press』12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*196 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*197 『シティロード』1982年3月号“追っかけインタビュー”(エコー企画/1982)
*198 来生えつこ著『いろはにオトコ』(新潮社/1985)
*199 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*200 『MORE』1982年5月号“アダルトな都会派サウンドに少年の感性が漂う(集英社/1982)
*201 『高二時代』2月号“JK・INTRVIEW シンガー・ソングライター 来生たかお 音楽は仕事であり、趣味。心地よいメロディーを作りたい”(旺文社/1985.01)
*202 『高二時代』2月号“JK・INTRVIEW シンガー・ソングライター 来生たかお 音楽は仕事であり、趣味。心地よいメロディーを作りたい”(旺文社/1985.01)
*203 来生たかおソロライブ Stand Alone 2008』のMC
*204 『週刊FM』1982年1月18日号“番組こぼれ話”(音楽之友社/1982.01.18)
*205 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*206 『éf』1985年12月号"friends 18 いくつになっても、音楽をやっていたい。ポール・マッカートニーみたいにね。"(主婦の友社/1985.11.20)
*207 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*208 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*209 『夕刊フジ』“小津と成瀬の良さが分かってきた”(産業経済新聞社/2005.09.28)
*210 ニッポン放送『マジカルミュージックツアーCountdown2000』“1983年特集”(2000.01.28)
*211 来生たかお Stand Alone 2019 Acoustic Tracks』(2019.06.01)のMC
*212 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.15(キティ・ミュージック・コーポレーション/1991.01?)
*213 TOKYO FM『エモーショナルビート』(1997.01.20)
*214 40th Anniversary 来生たかお Symphonic Concert 2015-2016 夢のあとさき』のMC
*215 来生たかお Stand Alone 2019 Acoustic Tracks』(2019.06.01)のMC
*216 来生たかお Stand Alone 2019 Acoustic Tracks』(2019.06.01)のMC
*217 『éf』1985年12月号"friends 18 いくつになっても、音楽をやっていたい。ポール・マッカートニーみたいにね。"(主婦の友社/1985.11.20)
*218 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.11.23)のMC
*219 来生たかお Stand Alone 2019 Acoustic Tracks』(2019.06.01)のMC
*220 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.11.23)のMC
*221 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.06)
*222 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*223 TOKYO FM『エモーショナルビート』(1997.01.20)
*224 来生たかおソロライブ Stand Alone 2013』のMC
*225 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー 来生たかお うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*226 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*227 『「tricolour mermaid」先行配信リリースconcert』(2013.06.08)のMC
*228 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*229 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*230 NHK-FM『サタデーホットリクエスト』(2005.11.12)
*231 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*232 『MORE』1982年5月号“アダルトな都会派サウンドに少年の感性が漂う(集英社/1982)
*233 来生たかお Stand Alone 2020 Acoustic Tracks』(2020.09.20)のMC
*234 『月刊歌謡曲』1982年5月特大号“特集I 来生たかお”(ブティック社/1982.05.01)
*235 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51(ベイシック/1997.06)
*236 『週刊FM』1982年1月18日号“番組こぼれ話”(音楽之友社/1982.01.18)
*237 NHKラジオ第1『音楽夢倶楽部』(1999.11.20)
*238 『月刊テニスジャーナル』1987年7月号“Tennis in my Life ㉖”(スキージャーナル/1987.06.05)
*239 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー 来生たかお うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*240 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*241 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*242 来生たかおソロライブ Stand Alone 2014』のMC
*243 来生たかおソロライブ Stand Alone 2014』のMC
*244 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27(ベイシック/1993.06)
*245 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』(1983)
*246 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.21(キティ・ミュージック・コーポレーション/1992.04)
*247 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27(ベイシック/1993.06)
*248 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.26(1993.05?/ベイシック)
*249 ニッポン放送制作『中村こずえのみんなでニッポン日曜日!』(2014.03.02)
*250 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*251 JAバンク石川コンサートVol.4 来生たかお&オーケストラ・アンサンブル金沢コンサート』のMC
*252 『週刊FM』1982年1月18日号“番組こぼれ話”(音楽之友社/1982.01.18)
*253 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*254 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*255 THE MUSIC OF NOTE 来生たかお ノスタルジーへの誘い』(2016.08.28)
*256 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.24(1992.12/ベイシック)
*257 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.24(1992.12/ベイシック)
*258 文化放送『フォークトレイン』(2001.08.19)
*259 赤坂プリンスホテルビュッフェディナーショー STREET CLUB ZONE Special Acoustic concert 2004
*260 鎌倉プリンスホテル サマーディナーショー SUNSET DREAM
*261 『月刊テニスジャーナル』1987年7月号“Tennis in my Life ㉖”(スキージャーナル/1987.06.05)
*262 『月刊テニスジャーナル』1987年7月号“Tennis in my Life ㉖”(スキージャーナル/1987.06.05)
*263 『月刊現代』1987年6月号“勝負に勝ちたい”(講談社/1987)
*264 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.24(1992.12/ベイシック)
*265 『報知新聞』“悪友親友こう言う録”(報知新聞社/1991.05.23)
*266 『報知新聞』“悪友親友こう言う録”(報知新聞社/1991.05.23)
*267 TBSラジオ『一慶の歌謡大放送』(1987.08.24)
*268 『ラケットスポーツ』(ゴーセン/1990)
*269 NHK-FM『高橋基子のニューサウンズスペシャル』(1988.01.16)
*270 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*271 『月刊現代』1987年6月号“勝負に勝ちたい”(講談社/1987)
*272 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*273 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*274 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*275 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*276 『月刊テニスジャーナル』1987年7月号“Tennis in my Life ㉖”(スキージャーナル/1987.06.05)
*277 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*278 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*279 アコースティックコンサート2008?』のMC
*280 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*281 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*282 『クロワッサン』 1995年3月25日発売号“話をしたい あの本のこと 来生たかお◆鼻1995.03.25/マガジンハウス)
*283 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*284 『報知新聞』“悪友親友こう言う録”(報知新聞社/1991.05.23)
*285 『報知新聞』“悪友親友こう言う録”(報知新聞社/1991.05.23)
*286 『週刊明星』1991年5月30日号“Jump Up インタビュー うちは婦唱夫随だけど、かみさんは爐△欧泙鶚瓩任后鼻塀険兌辧1991)
*287 フジテレビ系『SMAP×SMAP』(2000.05.15)
*288 『クロワッサン』 1995年3月25日発売号“話をしたい あの本のこと 来生たかお◆鼻1995.03.25/マガジンハウス)
*289 復活! 来生たかおトークセッション第一弾(2015.10.01)
*290 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*291 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*292 復活! 来生たかおトークセッション第一弾(2015.10.01)
*293 来生たかお Solo Live Premium Stand Alone 2014』のMC
*294 フジテレビ系『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1984.03.27)
*295 『GALS LIFE』1980年3月号“TALENT TALKING ESSAY 「レット・イット・ビー」に刺激されて、ピアノを習い始めたわけ。20才のときだったけど。”(主婦の友社/1980)
*296 清水音泉オフィシャルブログ『清水音泉♨風呂具』“麻雀”(2008.06.29)
*297 復活! 来生たかおトークセッション第一弾(2015.10.01)
*298 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*299 来生たかお Stand Alone 2018 ソロライブ in 慈眼寺』のMC
*300 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*301 NHKラジオ第1『音楽夢倶楽部』(1999.11.20)
*302 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*303 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』(1983)
*304 『新譜ジャーナル』1981年10月号“ESSAY 来生たかお“深さゆえの広さ”を生む生活”(自由国民社/1981) 、オリジナルシングルそして、昼下り」のレコーディング(1979年2月*305)の休憩時間、スタジオのロビーに置かれていた同ゲームで遊ぶ姿を見ていた来生は、当時のマネージャー(酒巻隆)から「1ゲーム、やりますか?」と声を掛けられてプレイした所、一気に嵌ってしまった*306。それまでは「ブロックくずし」で遊んでいた来生だったが、「スペースインベーダー」を音楽よりも面白く感じ、2日目には約2時間40分で9800円も使ったが、1000点を超える事が出来ず、上手い人のプレイを研究し、凡そ1箇月後にはハイスコアが8110点になった*307。来生の嵌り振りに一計を案じたマネージャー達(酒巻隆、岩瀬貞行)は、例え休憩時間であっても1時間程度の余裕がない場合はゲームを禁止にし、嵌ってから数ヶ月後の、スコアが10万点を超えるようになった頃には、マネージャーの「もうそろそろ」の言葉を聞くと、来生は移動砲台を自爆させて終了させるようになったという(キティサークルの総合誌『BACK STAGE PASS』(キティ・レコード/1979.09.27)
*305 FM東京『パイオニア サウンドアプローチ』1979.03.25
*306 キティサークルの総合誌『BACK STAGE PASS』(キティ・レコード/1979.09.27)
*307 FM東京『パイオニア サウンドアプローチ』1979.03.25
*308 『週刊FM』1982年1月18日号“番組こぼれ話”(音楽之友社/1982.01.18)
*309 フジテレビ系『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1984.03.27)
*310 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*311 『月刊現代』1985年2月号“現代インサイド 広げよう、ゼビウスの輪ッ! ゼビウス”(講談社/1985)
*312 来生たかお Concert Tour '84 Romantic Cinematic』のツアーパンフレット
*313 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*314 来生たかお Stand Alone 2019 Acoustic Tracks』(2019.04.14)のMC
*315 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*316 『Hot・Dog press』1982年12月25日号“HUMAN HOT INTERVIEW 内弁慶メロディ・メーカーはオリコンを毎週愛読しているのだった。”(講談社/1982)
*317 『週刊現代』2012年6月30日号“ 週現『熱討スタジアム』第20回『美空ひばり』に魅せられて”(講談社/2012.06.18)
*318 FM愛知『NDS presents 高嶋ちさ子 Gentle Wind』(2011.04.15)
*319 来生たかお コンサートツアー2009 余韻』(2009.03.15)のMC
*320 来生たかお Stand Alone 2018 Acoustic Tracks』(2018.09.17)のMC
*321 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.11.23)のMC
*322 来生たかお Stand Alone 2019 Acoustic Tracks』のMC
*323 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.23(1992.09/ベイシック)
*324 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.23(1992.09/ベイシック)
*325 『週刊現代』1997年10月11日号“私の“中毒書”日記 「いまの世界」への疑問を解いた本 ”(講談社/1997.10.11)
*326 『週刊現代』1997年10月11日号“私の“中毒書”日記 「いまの世界」への疑問を解いた本 ”(講談社/1997.10.11)
*327 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*328 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.13)
*329 来生たかおソロライブ Stand Alone 2014』のMC
*330 来生たかお マンスリーソロライブ Stand Alone Another Side』(2006.10.20)のMC
*331 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*332 来生たかお Concert Tour '88〜'89 With Time』のツアーパンフレット
*333 キティサークル公認ファンクラブ「TAKAO CLUB OSAKA」の会報『I Will...』No.2(1987.04)
*334 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*335 ニッポン放送制作『中村こずえのみんなでニッポン日曜日!』(2014.03.02)
*336 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*337 『月刊歌謡曲』1982年5月特大号“特集I 来生たかお”(ブティック社/1982.05.01)
*338 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.41(ベイシック/1995.10)
*339 オフィシャルファンクラブ「来生たかおインフォメーションデスク」の会報『別冊 来生たかお』2000冬の号(ベイシック/2000.02.01)
*340 オフィシャルファンクラブ「来生たかおインフォメーションデスク」の会報『別冊 来生たかお』2000冬の号(ベイシック/2000.02.01)
*341 来生たかお 25th Anniversary Concert Tour 2000 Dear My Company』の小冊子(2000)
*342 来生たかお 25th Anniversary Concert Tour 2000 Dear My Company』の小冊子(2000)
*343 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.41(ベイシック/1995.10)
*344 『non・no』1981年8月20日号“私の猫ものがたり むしぷは特別な猫なんだ”(集英社/1981)(『私の猫ものがたり』(集英社/1983.06)に収録)
*345 『月刊歌謡曲』1982年5月特大号“特集I 来生たかお”(ブティック社/1982.05.01)
*346 来生たかおトークセッション第2弾「将棋」(2005)
*347 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1986年8月25日号 Vol.63“TAKAO CLUB VOL.34〈『来生たかお 10th ANNIVERSARY ELEVEN NIGHT THEATER』のMCから抜粋〉”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1986.08.25)
*348 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.36(ベイシック/1994.12)
*349 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*350 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.26(1993.05?/ベイシック)
*351 『蘇る!』1999年8月号“ 対談 来生たかお×高瀬春奈 ペットは心の友である”(経済界/1999.07.08)
*352 『蘇る!』1999年8月号“ 対談 来生たかお×高瀬春奈 ペットは心の友である”(経済界/1999.07.08)
*353 『蘇る!』1999年8月号“ 対談 来生たかお×高瀬春奈 ペットは心の友である”(経済界/1999.07.08)
*354 『蘇る!』1999年8月号“ 対談 来生たかお×高瀬春奈 ペットは心の友である”(経済界/1999.07.08)
*355 『蘇る!』1999年8月号“ 対談 来生たかお×高瀬春奈 ペットは心の友である”(経済界/1999.07.08)
*356 来生たかお Solo Live Premium Stand Alone 2014』のMC
*357 コンサート(2014)のMC
*358 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.40(ベイシック/1995.08)
*359 テレビ朝日系『徹子の部屋』(1991.05.22)
*360 来生えつこ著『夢の途中に』(リクルート出版/1990.10)
*361 日本テレビ系『恋のから騒ぎ』
*362 来生えつこ著『夢の途中に』(リクルート出版/1990.10)
*363 『JUNON』1983年10月号“愛を歌いつづけてきた男たちの「僕の結婚」”(主婦と生活社/1983)
*364 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.17(キティ・ミュージック・コーポレーション/1991.07?)
*365 『JUNON』1983年10月号“愛を歌いつづけてきた男たちの「僕の結婚」”(主婦と生活社/1983)
*366 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*367 『JUNON』1983年10月号“愛を歌いつづけてきた男たちの「僕の結婚」”(主婦と生活社/1983)
*368 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.26(1993.05?/ベイシック)
*369 『JUNON』1983年10月号“愛を歌いつづけてきた男たちの「僕の結婚」”(主婦と生活社/1983)
*370 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.11(キティ・ミュージック・コーポレーション/1990.01)
*371 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.41(ベイシック/1995.10)
*372 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.2
*373 富澤一誠著『あいつのクシャミ』““マネージャー泣かせ”で“女泣かせ”の逆立つ髪の毛”(飛鳥新社/1980.01.06)
*374 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*375 『JUNON』1983年10月号“愛を歌いつづけてきた男たちの「僕の結婚」”(主婦と生活社/1983)
*376 『オリコンWEEKLY』1981年12月25日号“PERSON TO PERSON”(オリジナルコンフィデンス/1981.12.25)
*377 『JUNON』1983年10月号“愛を歌いつづけてきた男たちの「僕の結婚」”(主婦と生活社/1983)
*378 フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』(1982.07.26)
*379 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*380 『JUNON』1983年10月号“愛を歌いつづけてきた男たちの「僕の結婚」”(主婦と生活社/1983)
*381 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*382 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*383 『月刊歌謡曲』1982年5月特大号“特集I 来生たかお”(ブティック社/1982.05.01)
*384 復活! 来生たかおトークセッション第二弾(2015.12.12)
*385 『月刊 サウンドレコパル』1981年9月号“読者参加企画 レコード名盤選 私の100枚 ボクをうならせた名唱のボーカル・アルバム”(小学館/1981)
*386 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属歌詞集“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*387 『月刊 サウンドレコパル』1981年9月号“読者参加企画 レコード名盤選 私の100枚 ボクをうならせた名唱のボーカル・アルバム”(小学館/1981)
*388 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*389 来生たかお マンスリーソロライブ Stand Alone Another Side』(2006.11.24)のMC
*390 スペシャルライブ2006 Stand Alone Christmas Color』(2006.12.23)
*391 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属歌詞集“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*392 来生たかお 30th Anniversary Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』(2005.12.26)のMC
*393 来生たかおソロライブ Stand Alone 2013』のMC
*394 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.07.07)のMC
*395 来生たかおソロライブ Stand Alone 2012』(2012.07.07)のMC
*396 NHK-FM『私の名盤コレクション』(2005.10.19〜23)
*397 NHKラジオ第1『音楽夢倶楽部』(1999.11.20)
*398 TOKYO FM『大江千里のLive Depot』Vol.182(2004.12.09)
*399 来生たかお 20th Anniversary Concert Tour '95〜'96 夢より遠くへ』のツアーパンフレット
*400 『FMレコパル』1991年5月13日号“POPS*ROCK インタビュー&レビュー 来生たかお「永遠の瞬間〜モーメント〜」”(小学館/1991)
*401 来生たかおソロライブ Stand Alone 2013』のMC
*402 『FM fan』8月15日号“FM PROGRAM SPECIAL 来生たかおVS悲愴”(共同通信社/1983)
*403 『FM fan』8月15日号“FM PROGRAM SPECIAL 来生たかおVS悲愴”(共同通信社/1983)
*404 エフエム世田谷『三浦和人とドクター弘美の心デトックス・ナイト』(2015.11.06)
*405 『stereo』1977年4月号“おばんです その14”(音楽之友社/1977)
*406 コンサート(2012)のMC
*407 コンサート(2007)のMC
*408 コンサート(2012)のMC
*409 『FMレコパル』1991年5月13日号“POPS*ROCK インタビュー&レビュー 来生たかお「永遠の瞬間〜モーメント〜」”(小学館/1991)
*410 ニッポン放送『土屋礼央 レオなるど』(2018.12.03)
*411 『ARENA37℃』1983年5月号“HOT-TIME 「音楽やってる人間は、音楽だけやってなきゃダメ」 他人の仕事が多かった来生たかおが、今年は自分の活動に力がはいってる!”(音楽専科社/1983.05.10)
*412 『ARENA37℃』1983年5月号“HOT-TIME 「音楽やってる人間は、音楽だけやってなきゃダメ」 他人の仕事が多かった来生たかおが、今年は自分の活動に力がはいってる!”(音楽専科社/1983.05.10)
*413 『ARENA37℃』1983年5月号“HOT-TIME 「音楽やってる人間は、音楽だけやってなきゃダメ」 他人の仕事が多かった来生たかおが、今年は自分の活動に力がはいってる!”(音楽専科社/1983.05.10)
*414 文化放送『加山雄三 未来にセールオン』(2001)
*415 TBSラジオ『中村雅俊マイ・ホームページ』(2003.02.13)
*416 ベストCD-BOX『来生たかお作品集 Times Go By』付属歌詞集“来生たかお×来生えつこ”(2001.05)
*417 ギルバート・オサリヴァンの日本盤アルバム『In The Key Of G』(1990.04.13)のブックレット
*418 BS-i(BS-TBS)『Song To Soul』(2009.06.03)
*419 ギルバート・オサリヴァンの日本盤アルバム『In The Key Of G』(1990.04.13)のブックレット
*420 『クロワッサン』 1995年3月25日発売号“話をしたい あの本のこと。来生たかお◆鼻淵泪ジンハウス/1995)
*421 日本テレビ系『FAN』(1998.07.10)
*422 オフィシャルファンクラブ「来生たかおインフォメーションデスク」の会報『別冊 来生たかお』1998夏の号(ベイシック/1998.07.31)
*423 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.3(キティ・ミュージック・コーポレーション/1988.08)
*424 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1986年9月25日号“TAKAO CLUB VOL.34 ”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1986.09.25)
*425 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.25(1993.02/ベイシック)
*426 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27(ベイシック/1993.06)
*427 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.27(ベイシック/1993.06)
*428 『OK-Music Electric Side Web』コラム“クロスウィンドの頃 6 白竜ナンセンスフォーク事件”
*429 『OK-Music Electric Side Web』コラム“クロスウィンドの頃 6 白竜ナンセンスフォーク事件”
*430 『OK-Music Electric Side Web』コラム“クロスウィンドの頃 6 白竜ナンセンスフォーク事件”
*431 板倉雅一オフィシャルブログ『My Chronicle』“来生たかお&リンドン 1977年”(2016.03.27)
*432 19歳の頃、因幡晃の仕事で世話になった松田真人に誘われて来生のバックバンドに加わった(柿崎洋一郎オフィシャルブログ『KAKIYANの時々日記。』“来生たかお35周年コンサート”(2010.12.24))。
*433 (平野肇著『僕の音楽物語(1972-2011)名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』(祥伝社/2011.09.06))
*434 平野肇著『僕の音楽物語(1972-2011)名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』(祥伝社/2011.09.06)
*435 平野肇著『僕の音楽物語(1972-2011)名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』(祥伝社/2011.09.06)
*436 平野肇著『僕の音楽物語(1972-2011)名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』(祥伝社/2011.09.06)
*437 キティサークルの総合誌『BACK STAGE PASS』(キティ・レコード/1979.09.27)
*438 来生たかお Stand Alone 2018 Acoustic Tracks』(2018.04.21,07)のMC
*439 『週刊文春』1991年5月16日号“語りおろし連載 第286回 行くカネ 来るカネ「四十歳を迎えたシンガーソングライター 新しい音楽を作って儲けようという気は全然ない」”(文藝春秋社/1991.05.16)
*440 『週刊文春』1991年5月16日号“語りおろし連載 第286回 行くカネ 来るカネ「四十歳を迎えたシンガーソングライター 新しい音楽を作って儲けようという気は全然ない」”(文藝春秋社/1991.05.16)
*441 小椋佳トリビュートコンサート 夢歌詩、あるところに』のMC
*442 来生たかお Stand Alone 2019 Acoustic Tracks』のMC
*443 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51(ベイシック/1997.06)
*444 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51(ベイシック/1997.06)
*445 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51(ベイシック/1997.06)
*446 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.51(ベイシック/1997.06)
*447 『FMレコパル』1977年11月14日号“Target 少年のゆらめきが……来生(きすぎ)たかお”(小学館/1977)
*448 NHK-FM『高橋基子のニューサウンズスペシャル』(1988.01.16)
*449 『産経新聞』“対談 小椋佳+来生たかお”(産業経済新聞社/1997.04.08)
*450 『産経新聞』“対談 小椋佳+来生たかお”(産業経済新聞社/1997.04.08)
*451 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.36
*452 ファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『égalité』vol.36
*453 TBSラジオ『サウンドストームDJANGO』(1982.11.10)
*454 『夕刊フジ』“音楽30年…あくまで通過点”(産業経済新聞社/2005.09.27)
*455 オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報『HEAD ROCK』1987年5月25日号 Vol.72“TAKAO CLUB VOL.42”(キティ・ミュージック・コーポレーション/1987.05.25)
*456 文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』(1982.02.20)
*457 来生たかお Concert Tour '82 夢の途中…』のツアーパンフレット“全国プロモーターよりの書簡”
*458 『月刊アニメージュ』1987年6月号“第9回アニメグランプリ”(徳間書店/1987)
*459 コンサート(2009・2012)のMC