人物紹介 / 典韋


典韋

大斧や八十斤の双戟を軽々と使いこなす豪傑と伝えられている。
現在の重さに換算すると約18kg。普通の人間であれば抱えるだけで精一杯である。
ちなみに「双戟」というものは、戟の二刀流という説と両刃の戟という説がある。

吉川三国志では曹操軍に仕官する際、強風で倒れて兵士数十人がかりで支えるのがやっとの大旗を、片手で支えるシーンもある(正史では曹操軍仕官前の話)
怪力一辺倒の武将かと言われるとそうでもなく、呂布との戦いでは近付いてくる敵に短戟を投げつけ、次々に命中させると言う器用さも見せている。

フレーバーテキストの記述を結末とする演義での最期の戦いは凄絶の一言に尽きる。
急を聞いて駆けつけようとするが、折悪しく胡車児と飲んだ夜。
既にあちこちから喊声が上がっていた上に、得物の戟は胡車児に盗まれており、徒手空拳・裸同然で駆けつける羽目になる。
戟が無くとも敵の武器を奪って奮戦し、武器が壊れれば、ついには敵兵その物を振り回し応戦。
見かねた敵が遠巻きに矢を射かけた結果、テキストにもある最期に繋がるのである。
この壮絶な散り様は、日本における武蔵坊弁慶のそれを彷彿とさせるが、
これは源義経の活躍を描く軍記物を作成する過程で典韋のエピソードが参考にされたという説がある。
ただし一方で、単なる偶然の一致に過ぎない、という意見もあるのだが。

一方で正史の自身の伝における描写も負けてはいない。
自身の守備担当は死守し続けたが、結局部下と共に包囲されてしまう。そこで自身の鉄戟で敵の得物を一薙ぎに打ち砕いて見せる。
しかしその鉄戟も折れ、部下は全滅。自身も満身創痍になりながら、なおも戦い続け、敵兵二人を両脇に抱えて殺したのち、突進。
更に敵兵を打ち倒すがそこで傷口が開き、大喝しながら息絶えるのである。
その後も敵兵は近づけず、首を切り落としてようやく安堵したというから、演義と同じく立ち往生だったのかも知れない。
どちらが史実でどちらが物語か分からなくなるような、鮮やかな描写である。

その活躍ぶりに反して、あざなは伝わっていない。
尚、二つ名の「悪来」は怪力で鳴らした殷の紂王の家来の名が由来である。
しかし讒言で人を貶めることを好んだとされ、その点は忠義一徹の典韋とは対照的と言える。