Wings to Awakening / PART2 / The Four Right Exertions


Wings to Awakening/PART2

C. 四正勤(The Four Right Exertions)

英語原文

組となったこの4つの活動は、努力がどのように心にある善の資質を伸ばしていくかを示すものです。基本的な句は次のものです。


比丘が欲や努力を生じ、忍耐を起こし、意思を固く持って勤めるときに、次の場合がある。

まだ顕れていない悪い、不善の資質が起こらないために… 既に顕れた悪い、不善の資質を捨てるために… まだ顕れていない善の資質が顕れるために… すでに顕れた善の資質を維持し、混濁させず、増して、豊富にし、開発し、明らかにするために…


これらの4つの側面はまた「防護(guarding)」「忌避(abandoning)」「開発(developing)」「維持(maintaining)」という用語でも呼ばれます[§50]*1

これらの4つは全て、ある時にはただ1つの過程の4つの側面かも知れませんが、悟りを心にもたらすためには、必須の役割を演じます。

不善の資質を忌避することは、大体、念のような善なる資質を開発することにただ集中することにより達成されます。

同じ原則は逆にも働くといえます。不善の資質を巧みに根こそぎにすることにおいて、その根こそぎにすることの巧みさというのは、気付きの智慧を開発することそのものにあります。

七覚支を扱ったときに見たように[第2部 G. 七覚支?]、 意識的に障害に餌を与えないようにすることが悟りのための支分を生み育てる一方で、 悟りのための支分を育てる行為は、いくつかの場合には、同時に障害となる要素を飢えさせるものです。

とはいえ、究極的には正しく勤めるということは、不善なことから単に離れるだけではありません。というのは、それは善の基本的な要素、気付きと智慧を使って、善がどれほど超越的なもの(transcended)となりうるかという理解を得るところまでいく必要があるからです[§61?]。

多分、正しい勤めの中でもっとも驚くべき要素は、欲の果たす役割です。欲は、通常は、患いの元となる渇愛に関係付けられています。このトピックの詳細を成功の基盤[第2部 D. 四神足?]のもとに扱っていきますが、ここではただブッダは欲望の中には善なるものも不善なるものもあると認識していたこと、患いとストレスを終わらせる道においては善なる欲望が不可欠な要素であることを自由に(freely)*2認めていたということを知るに留めます。

正しい勤めを開発していくにあたり、最も重大な転は、不善なる資質を忌避する努力と、善なる資質を開発していく努力は、それ自体善なることだということです。不善なる状態を根こそぎにするための不善なる努力は、もし良く考えられていたとしても、多くの場合、問題を解決する代わりに余計にひどくする(exacerbate)ことがあります。たとえば、嫌悪の思いを嫌悪するということは、原因と結果を見て、望みの結果を得るためには原因をどのように作る(manipulate)*3必要があるかを学ぶ、四念処[第2部 B. 四念処?]の瞑想の2番目(受)で培われた理解で対処するほどには効果的でありません。

この理由から、正しい勤めの基本的な句は、暗示的にも明示的にも、道へと続く他の支分も援用して、努力がうまく為されることも言っています。これらの勤めのなかで心を活性化(activate)させる3つの資質、欲・忍耐・意思はまた力の基盤[第2部 D. 四神足?]のメンバーでもあり、それらは集中を達成するのに中心的な要素としても機能します。

善なる資質と不善なる資質を分かつ能力には、これらの勤めの中に暗にあることになっていますが、あるレベルの気付きと智慧が必要です。開発する対象として際立って価値があると述べられている善なる資質は、七覚支であり、それは「気付き(念)」を含み、択法覚支、定覚支、正しい勤めの過程に再度投入され、それをすばらしく高いレベルまで持っていくことのできるすべての要素です。

§51?の句は、不善なる資質を忌避するための7つの方法、見る・制御する・役に立てる(using)・耐える・避ける・壊す・開発するといった方法を挙げることで、正しい勤めがどのように適用されるかというアイデアを示しています。この句からは、どの不善なる資質に対して、どの扱いがふさわしいかということは、意図的(deliberately)にぼかされて(vague)説かれていますが、これは自分自身の実践の中で各々の瞑想者が見つけていくポイントです。個人的な探求が正しい勤めの実践のために本質的なことだと強調できるのは、自分の気付きと智慧により、何が見付けられるかということに敏感になるからです。同じポイントは、実践にはどれほどの努力が必要なのかという質問にも適用できます。ブッダはある瞑想者は痛みのある、遅い実践を忍ばなければならないし、一方、実践に痛みがあるけれども、速い人々もいるし、快適で遅い人、快適で速い人もいると言っています[§§84-85?]。このように各々は状況に従って、実践に掛ける努力を調整する必要があります。このように努力レベルが違ってくる必然性は、個人にのみ起因するわけでなく、状況にも依存するのです。ある場合には、不善なる資質を去らせるのに、ただ平静さ(equanimity)をもって単に見ていれば十分なこともあり、また別の場合には、それから逃れるのに意識的な努力をする必要もあるでしょう[§§58-59?]。

このように、観察を通じて、善なる努力には教条的なアプローチは取れないということが分かるでしょう。不断の勤めの両極端、疲れ果てるほどのものと、反対に「努力」しても決まったようにしかならないのではないかという恐れ(knee-jerk fear)は、どちらも誤って導かれたもので、これはすべてのことにある「中道」となるようにも見えます*4。本当の中道とは、自分の能力と、取り掛かっている仕事にあわせて、自分の努力を調整することです[§86?]。ある場合には、これはずっと懸命に努力することであり、そうでなく単に観察をじっくり行なうことの場合もあります。ある状況に対して、どのような種類のどのような努力が適切かということを知るセンスは、基本的な能力 -- 気付きと智慧を開発していくのに重要な要素となります。

正しい勤めは、四念処[第2部 B. 四念処?]での努力の要素と同じものということを既に述べました。その実践の最初の段階では、正しい勤めは、念を注ぐ範囲に留まらせておくためと、そこから逸らせようとする不善な資質から守る(ward off)ために機能します。第2段階では、その機能はもっと精妙になります。生起・消滅するもの「何か」という判断に巻き込まれてしまう*5傾向から守ってくれて、生起・消滅のプロセスを心が操作し、観察し、熟知するという仕事に適したものとしてくれ、禅定の静けさまで心を持っていくことができるようになります。第3段階では、その機能はもっと精妙になり、悟りの過程に適した不変の状態(state of non-fashioning)に心を持ち上げるために、基本的な「空」すなわち根源的に現象学的な気付きを維持します*6。この平衡状態は -- 努力があるとかないとかいう次元とは別ですが -- §62?の句にある逆説の説明になります。その句では心が再生の流れを、「前に漕ぐ」わけでも「そこに留まる」わけでもなく、心が善業を超えたレベルにまで持っていった、正しい勤めの究極的な善なる行いをもたらす平衡状態において渡ると言われています。*7

超越的な段階にいたるまで善なる資質を磨く努力についての、この議論に暗に含まれているのは、実践の目的地は、社会的な条件付けにさらされる前の、子供のような純粋な気付きに帰っていく努力ではないという事実です。§61?句により、この事実が明らかにされています。仏教的な分析によると、子供の心の状態というのは、純粋なのではなく、多くの不善なる資質を潜在的に秘めた無知の強いものだということです。これらの資質は、見た目には無垢なようですが、ただ子供の知能の力や体の力が弱いからに過ぎません。その力が強くなった途端、心の潜在的なところが明らかになります。ある現代の教師の述べるところによると、子供のような心は再生の輪の源となります。それがもし本当に純粋で気付きに満ちているなら、不善な社会的状況にも染まらない(susceptible)ことでしょう。このように純粋さというのは、知的に開発された能力を捨て去ることにあるのではなく、それらの能力をより高い、熟達した資質に高めることにあるのです。このことが、実践にあたって正しい勤めが必要な部分であることを説明しています。

(以上)

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*1 歴史的な日本語訳で適切なものがあれば差替えます
*2 意味はなんとなく通じるが、まずい訳ですね
*3 「操作」が一般的だが、原因を操作するという日本語は適さないと思った。
*4 訳がおかしいです。すみません。
*5 英文の"what"からそう読み取りました。この日本語が適切かは議論がありそうですが、禅定 jhaanaについての記述であることから、「判断から守る」という意味に取りました。
*6 もう既に分からない段階に来てます。訳も良くないので、今はさらっと読み進めていただくほうが良いかと。もっと修行してからいい訳が出来るかも知れません…もしかしたらですが
*7 要改訳