Wings to Awakening / PART3 / Concentration. Abandoning the Hindrances


Wings to Awakening/PART3

D. 集中:障害を回避すること(Concentration: Abandoning the Hindrances)

英語原文

経蔵(Canon)の中の幾つかの経典[例えばDN 2?のようなもの]は、集中の最初の段階は七覚支[第2部 G. 七覚支?]との関係ですでに論議した五蓋を捨てる(abandon)ことだと述べています。 それは、感官の欲・嫌悪(ill will)・昏沈(こんちん)睡眠・掉挙(じょうこ)不安・疑です*1。これらの障害は不善の3つの根を中程度に働いてしまうので、捨てる必要があります[§3?]。 感官の欲は、貪欲(とんよく)の一形態です。嫌悪は怒りの一形態を、また残りの3つは無知の一形態です。 5つともすべてが、多様な方法で、集中を妨げ、自分や他人、あるいは双方にとって何が益があることかと認識するのを難しくして、智慧を弱めます。 この最後の点*2は、特にそれらの扱いを勘違いしやすくさせています。というのは、その五蓋を克服する前に、それらが不利益をもたらす心の状態であることを知る必要がありますが、それを克服しようとしている最中には、見る能力が殺がれているため、実際それらが不利益であることが見えにくくなっているからです[§133?]。 例えば、ある人が他の人に対して、感官の欲を感じているときに、その人の魅力的でない面や、欲そのものの危険性に焦点を当てるのは難しいことです。同じように、ある人が怒っているなら、その起こりに正当性はないと感じるのは難しいことです。眠いときには、少し眠るべきだと感じないでいるのは難しいことです。心配しているときには、心配する必要などないと信じることは難しいことです。そのようなことです。

悟りの前の段階にあっては障害から完全に免れることはないですが、心が禅定に入るほどの最初の(preliminary)レベルまでには弱められます。この最初のレベルが、このセクションでの句が中心としているものです。§159?句は、瞑想の途上で起こる不善の思いを取り扱うための5つの方法をリストアップしています。このセクションに含まれている句は、それらの方法のうちほとんど最初の2つ -- 不善の思いを善の思いで置き換えること、不善の思いがイヤになるまでその危険性を熟慮すること -- にのみ焦点を当てて、心を支配してしまおうとするその障害の力から逃れることを描写しています。 一番目の方法の例に含まれるているのは次のことです。

  • 魅せられているどんな感官の対象についてもその魅力的でない面に焦点を当ててみること[§§30?, 140?, 142?]。
  • 嫌悪の思いを掻きたてる人についてその良い資質に焦点を当ててみること[§144?]。すべての人たちが自分の要望に従って欲しいと期待することの愚かさに焦点を当ててみること[§145?]。
  • 今の集中の対象が眠気を引き起こすものだと分かったなら、集中の対象を変えてみること[§147?]。 以上です。 二番目の方法の例に含まれるているのは次のことです。
  • 障害は心を縛り付けて制限のある状態に置いてしまうということ[§§134?, 137-138?]。
  • その障害の力から自分を自由にしたときにのみ、自由を見つけることができること。 実践においては、これら2つの一般的なアプローチだけが使える方法なのではありません。テキストに出ている例は、瞑想者が望む効果を得るために似たテクニックをどのように編み出す(devise)ことができるかヒント(inspiration)を与えてくれるものです。

先に述べたようなダブルバインド(相矛盾した事実に巻き込まれること)、つまり一方では五蓋がその人の本当の最善の利益が何であるかを見えなくすること、もう一方ではその人が五蓋を克服しようとするならそれら本当の利益を見る必要があること、これらのダブルバインドから逃れるためには、修行者は開発してきた五能(five faculties)に頼らなければなりません。 信は、五蓋が危険性を持つものだと指摘する人のアドバイスを聴き入れるために必要です。ある程度の忍耐は、これは正しい勤めとしてですが、障害が起きたのに気付いたらすぐに、それが強く成長してしまう前に捨て去る努力をするために必要です。 念は、それが注がれる範囲において(based on the frames of reference)*3、五蓋が起こったことに警報を鳴らすためと、それらを最初の段階でなぜ捨ててしまわなければならないかの理由を思い出すために必要です。この念は、五蓋の危険性を他の人たちが指摘した教え -- §§131-134?§138?といった句にある五蓋についての多くの喩えは、その記憶を鮮やかにしてくれます -- を思い出すことにより、強められます。 念はまた自分が個人的な経験 -- 他の人が五蓋に折れてしまったがゆえに被った損害や、自分自身その影響下で行なってしまったことを後悔すること -- で出会う五蓋の危険性を思い出すことによってもまた強められます。

正しい勤めと念処の実践*4には、最初のレベルの集中と智慧があるので、これらの能力も同じく五蓋を捨て去るために働く。 それらが強く開発されるに従い、五蓋を切り捨てることにどんどん効果的になっていく。七覚支は集中の中に養われるが、五蓋へ直接の解毒剤として働く[§76?]。一方、智慧は、集中された念と組み合わさって、五蓋にだまされないためにもっとも効果的なツール、それは障害を心の行為とその行為対象に分けることに熟達する手伝いをする。 例えば、智慧によって感官の欲の感覚を1つのこととして見て、その欲の対象はまた別に別れたものとして見ることができるようになる。 この能力は、たくさんの方法のなかでも本質的なものである。初めに、それは対象の好ましい側面を、対象を欲する行為と、分ける手伝いとなる。それにより、2つを混同することがない。その2つを混同する傾向があると、欲が心にあるときにその危険性を見ることは難しいだろうし、同時に、ブッダが感官を評価しないようにと忠告したことに、一般的に従いづらくなってしまう。

広く思われていることに、仏教が感官に対して不公平な価値観を持っていて、感官の対象の美について積極的な面もあるのに、それには目をつぶっているという見方がある。しかし単純にそうともいえない。ブッダは感官の対象がそれ自身の美を持っていて、満足を得ることができる(can give a measure of satisfaction)[MN 13?]。けれども、ブッダが指摘するのは、対象の美というのはそれだけでおしまいにしていい話ではない、全ての美しいものは衰えるからだ。もし幸せの基礎をそういうものに置いてしまったら、その幸せはいずれ無くなる(is in for a fall)*5。より大事なことは、ブッダは感官を感覚の対象として定義したのではなく、そのような対象に感じる熱情や喜びと定義したのである[AN 6.63?; MFU, p. 53?]。感覚の対象は、それ自体では良くも悪くもないのであるが、熱情や喜びといった行為は心を縛り付けてしまい、それの即座の平和を邪魔し、継続的に再生と再死の輪から逃れられないようにしてしまう。欲をその対象から切り離すことによってのみ、人はこの教えが真実であることをじかに受入れることができる。

この点は、他の障害についても同じように当てはまる。例えば、怒りの対象と怒りそれ自体を心の現象として切り離すことができたとき、怒りが心を占領するままにしておく自明な危険性を見ることになる。

加えて、行為をその対象から切り離せるようになると、その行為が大きな力を得てしまう前に、それに敏感となることができ、同時にその行為は心の性質(心所)そのものでしかないと見なすこととなる。そのとき§30?にあるような実践 -- 心を集中しようとしているときに、障害が来ては去っていく様を観察するという実践 -- に入ることができる。

このようにして、五蓋が起こるなかに流れるパターンにそのうちとても馴染むことになるので、それを切り捨てたり心から除いたりすることがうまくできる。 §137?の句は、感官の欲が起こるときに見るであろうパターンの一例を示している。他の人に性的に魅かれるのは、自分自身の性的な感覚に何か魅力の感覚が生じることから始まる。§96?の句は、もっと抽象的になるものの、心が五蓋を太らせるほかのパターンを示している。そのようなパターンを感受することで、人は心の中の不善の根について、もっと些細なレベルで分析することができるようになる。このようにして、五蓋を忌避することの技術は、集中力の実践の最初のレベルを単に離れ、五能の全てを鍛えながら悟りへ達するまでになるのである。

(以上)


*1 五蓋はもっと伝統的な訳に置き換えます
*2 智慧を弱める点
*3 「念処」とでもいうべきでしょうが、訳しにくいです。この言い回しは出入息念の説明にも出てきます。
*4 英語では数詞を入れていないことが多い。ここもright exertion and the practice of the frames of referenceとなっているので、そう訳した。だが、日本語としては「四正勤と四念処」とした方がよいとも思える。
*5 この訳は適切か