Wings to Awakening / PART3 / Conviction


Wings to Awakening/PART3

A. 信(Conviction)

英語原文

「導入部」で触れたように、「悟りへ飛翔する手段」にある37のすべてが五能の元に分類できます。第2部ではこれらの様々な要素の相互関係について、焦点を当ててきましたが、この本のこの部分は、個々の要素そのものについて見て行きながら、それを五能の中に位置付けていきます。

五能のうち、信はもっとも基礎をなす部分です。ブッダの教えを実践するにあたって、総合的な文脈を含むからです。仏教徒的な生活に必要とされる態度や倫理などに関連する多くの事柄が、これは在家であっても出家であっても同様ですが、このカテゴリーに含められます。

§69?の句は、信という能力を預流果の4つの要素の1つとして定義しています。なので、信の本質を理解するためには、これらの4つの要素が何であるか知る必要があります。§70?§71?では、その4つについて違う定義がなされています。最初の定義リストは預流果のための前提条件(prerequisites)です。その中には、善い人たちとの交流、真実の法を聴くこと、根源的に意を注ぐこと、ダンマ(教え)に沿って実践することです。2番目の定義リストは、流れに入った人の特質を表しています。ブッダ・ダンマ・サンガへの揺るぎなき確信、そして聖者をあらわす徳についてです。両方のリストには相互関係があります。というのは、信というのは預流果へ導く特質でもあるけれど、一方、その信が揺るぎなきものとなるのは、預流果に到達した時点なのです。ただ阿羅漢に悟ったときにのみ、智は完璧なものとなり、信はもはや必要ではなくなります[§89?]

この預流果の要素についての2つのリストは、信について3つの側面をカバーしている点で似ています。社会的に(誰を信頼するのか)、知的に(何を信じるのか)、実践的に(結果としてどのように行為するか)です。なぜなら、信というのは説明的な教義(descriptive proposition)とかではなしに、行為のコース(course)だからです。 ― 社会的な文脈においてカンマ(行為)の過程にどのように熟達するか ― これらの3つの側面は切り離せなく密接に関わっています(inextricably intertwined)。社会的な側面は、これらの課程をすでに達成している人々と関わる必要から生まれてきます。彼らの言葉から学び、彼らの行為を真似するために*1。知的な側面においては、 ― カルマの原則(因果応報)を信ずること ― これは心の中に善を育てるために、カンマの本質を理解し、自分の行為に責任を持ち、善業を積むことによる利益を得ることができるという可能性に確信を抱くために必要です。実践的な側面は、もし善業を積むような訓練を為さなければ、それは、善業を修習していくことへの信が、実は真実のものでなく、よって信から完全な利益を得ることができないため、というこのような理由で必要です。

善業を修習(development of skillfulness)していく上でのこれらの要素の関係については、いくつかの句で触れられています。例えば、§53?, §54?は、良い人々と関わることや、根源的に意を注ぐこと ― この双方とも最初のリストに上がっていました ― を、何が善であるかを知っていくための第一の外的、内的な前提条件として、唱っています。同時に、信の知的・実践的な側面により、粗雑なレベル(grosser levels)での不善の根に対抗することがやりやすくなります[§3?]。カンマの原則(因果応報)を信じることにより無知が削減され、徳を積む実践は、心の中の貪欲や瞋恚(しんい)*2の力を弱めてくれます。

信が、社会的、知的、実践的な側面でどのようにお互いに関係しているかの詳しいところを理解するには、まずは分けてみなければなりません。尊敬できる人々を友とすることが、聖なる生活の全てである[§115?]とのことから、まずは「社会的な側面」について見てみましょう。

このセクションの句は、信の社会的な側面に注目していますが、2つの主要な主題を取り扱っています。どのように良い人を見分けるか、そしてなぜその人たちと関係するべきかです。

§119?の句は、良い人たちについて、3つの基本的な教えを上げています。これらはある人を見るときに、善なる性質を判断する際の基準とできるものです。布施の実践に難を唱える人や、出家の生活(renunciate life)を批判する人や、親に仕えることに反対するような人がいたら、彼らとは関係を避けるようにうまくしたほうがよいでしょう。というのは、彼らの考え方や動機は信頼できるものではないからです。もし関わらねばならないのであれば、学ぶべき人とか真似するべき人と見なさないように。このように、信において、社会的な面と知的な面というのは、その人の教えを聴いてみることにより、関わるべきか否かを知るといった風に、相互に関連しています。また同時に、良い人たちの教えというのは、何が良いことかを知るのにも役立ちます。§117?の句は、この点をさらに深く、良い人たちに見られる積極的な特質について述べています。それというのは、カンマの因果法則についての確信、他者を助けること、徳、智についてです。ここで重要なのは、もちろん、良い人たちというのは、ただ日頃言っていることというよりは、いつも習慣のように、行っている行為によって自ずと明らかだということです。これらの習慣というのは、ただ長い期間、関係を持つことによってしか知りえないものです。これは、仏教のサンガにおいて、学生は生涯一人の先生に忠誠を尽くすことはない理由ともなります。もしその教師が自分の益にならないと知ったなら、例えばそれは教師が本当は前述したような特質を持っていないと分かった場合とかですが、その場合は、他の教師を探してその教師のもとを去るのは自由です。

預流果に達した人は、良い人たちを見分けるのは容易になります。というのは、その人はいまや聖なるサンガの一員であり、他の人が達しているかどうかを見分けられるからです。サンガのメンバーにとって「良い人たち」というのはブッダと残りの聖なるサンガを指します。もちろん、ブッダはずっと前に般涅槃に去られましたが、彼の法(教え)と律は、代わりに教師として残っています。そうなので、人はブッダと関わりが持てるのです。

道を修練している(embarking)人が、まったく一人でいるよりは、良い人たちとの関係を持つ必要がある理由は、心の中の善の根は、不善の根と混ざりあっているからです。そして不善の根によって、どれがどうなのか見分けることが困難になっているのです。なので、自分よりもっと道において経験ある人に、自分の持っている善なる性質を指摘してもらい、それらをさらに修習していくよう勇気付けられるような、忠告や生きた実例を見せてもらう必要があります[§9?]。もし、道に従おうという気がまだ起きていなくとも、信や利他心や徳や智慧を備えた人と交わるのが賢いのです。なぜなら、そのような人たちは、他の人に対して、不公平なやり方や害意あるような扱いをなさないでしょうから。もし、彼らが本当に信と徳を体得しているなら、かれらの良識や関心は、彼ら自身が不善な意図に沿って行為することがないと、信頼できるでしょう。もし、彼らが利他心や智慧を持っているなら、彼らは智慧を持っているといえるでしょうし、それを分け与えようとするでしょう。この智慧を分け与えることは、より多くの利益の基礎を作ります。それは§125?, §126?に示されているように、悟りの体験まで続く因果の輪(causal chain)*3を動かすことになるでしょう。この因果の輪により、カンマの原則が意味するところを理解するようになるまで、良き教えを聴いていくようなことになります*4。また、そのような人々を真似すべきお手本とするべきことでもあります。このように、誰も良い人になるように自分で為すことができますし、因果の原則に精通することによる利益を楽しむことができます

仏教についての本が広く流通していますが、ブッダの教えがただ単に言葉や定義ではなく、心や精神のあり様(質)であるということを知ってください。思いと言葉と行いを善く巧みにしていくことです。これらのあり方は、本よりは実際に練達している人から学ぶのが一番良いです。これはスポーツを教わるようなものです。スポーツについて書かれた本から、重要な原則を拾い読みすることはできるでしょうが、ずっと多くの言葉にならないレベルのことが、実際にそのスポーツをマスターしている人と関係を持つことにより、学ぶことができます。これにより、どれほどの練習が十分か、自分の強みと弱点は何か、タイミングとは、自分の味方と敵とは、などなどが学べます。AN 7.64? は善い人の特徴について、同様のリストを挙げています。それらの多くは、簡単に言葉にあらわすことができません。ダンマの知識、(経典の)言っている意味が分かること、自分の強みと弱点、生活必需品を使用するにあたり、中庸の感覚を守ること、物事を為すに適切な時季に行うこと、社会に関わるに様々なレベルの感覚を持つこと、そして人々をどのように判別するかということ。このリストの中で、最初の2つのタイプの知識は、言葉で表せるものであり、言葉により渡すことができますが、他のものはもっと潜在していて、ただ、良い人々と関わり、その行為を見ることによってのみ知ることができます。

言葉にできる知識ということを扱いながら、われわれは信の社会的な側面から、その知的な側面へと話を移すことができます。善い人から抽出できるこの言葉での知識の内容は、§106?が真正の正しい見だとしているものから始まります。

与えられたもの、供与されたもの、捧げられたものがある。それは善・不善の行為の果であり結果である。この世界があり次の世界がある。母があり父がある。突然、再生する生命がある。正しく見て、正しく実践し、この世界と次の世界を直接に知りそれを自分自身理解して、のべつ耐えるバラモンと賢者が存在する。

第2部 H. 八正道?で述べたように、この句が説いているのは、布施の功徳や、良い悪いという道徳的な質というのは、単なる社会的な決め事でないレベルで、普遍的に備わっているものだということや、死後の生命があり、真の道徳的な負債を自分の両親に対して負っているということや、真実に直接にこれらのことを知り、適切な出家の生活を営む人々がいるということについてです。これらを信ずることは、善業への道の最小限の前提となるものです。もしこれらを疑うならば、 心の中に善い性質を育むために必要なエネルギーや信頼が生まれてきません。正しいか誤っているかをほとんど考えることなしに、目の前の欲を自分のために満たすようになってしまうでしょう。これらの信を確信として受け入れようとするのは、ただ単にブッダの教えを見知っているだけでなく、それを完遂しようとする段階へ向かう、初めのステップとなります。

これらの信は先に述べた善い人に関する教えの3点の基礎となるものです。布施、前向きであること(going forth)、自分の両親への奉仕の3点です[§119?]。これらの原則の価値を認め、できるだけそれに沿うように努めていくことにより、ブッダの教えをより高いレベルで、四聖諦まで理解するために必要な人格というものを築き上げていけます。預流果の要素の1番目のリストが示すように、単にダンマを聴くだけでは十分ではありません。すでに第2部 G. 七覚支?で見てきたように、正しい問いに焦点を当てるための、根源的に意を注ぐことも学ばなければなりません。この文脈において、教師に対して、生産的な質問ができるようになり始めるでしょうし、一般的に自分の経験を問うのに、四聖諦のカテゴリーを使うようにシフトしてくるでしょう。この意味において、聴いて、根源的に意を注ぐことは、智慧の開発において最初の2つのレベル ― 聴くことや合理的に考えることを基礎とした理解 ― をカバーします。そして3番目に着手しはじめることになるでしょう。精神の善なる質を開発することに基づく理解ということに[DN33]。((訳がよくない!特に最後の一文))

ダンマを聴くことは、根源的に意を用いるようになるためには、必要な前提条件ですが、だからといって、ダンマを聴くことから自動的に根源的に意を用いるようになるわけではありません。それは意識的に築き上げられる必要があります。そうしなければ、原因となるプロセスは、はっきりとした知識(明知)と解放へと導かないでしょう。この点はダンマパダ(64-65)からの有名な句(stanza)に表現されています。

一生の間、愚者が賢者と一緒にいたとしても、それでさえ、かれはダンマについて何も分からないだろう 
  それは、さじがスープの味を知ることのないようである。 
一瞬の間、知ることのできる人が賢者と一緒にいるならば、それだけで、かれは即座にダンマを知るであろう
  それは、舌がスープの味を知るようにである。 

瞑想の目的は、意識的に気付き(念)と智慧を育て、心の善なる使用法がどのようであるかを理解して実際に使用できるようになり、 ダンマを完全に理解することができる洞察に満ちた人へと変えることにあります。

預流果に達することにより、死がないことの最初の味を味わいますが、信の知的な側面が、ブッダの解脱にあるような揺るぎない確信として表れてきます[§72?]。それは三宝、すなわちブッダ・ダンマ・サンガに対する揺るぎない確信へと発展(branches out)します[§71?]。人が悟りの感覚を知るならば、ブッダの悟りの真実性と尊いサンガの悟りの真実性が確信されます。ダンマの実践を通じてどのように悟りがもたらされるかを理解することは、八正道が実践の理想的な要約・圧縮(synopsis)であり、そこには欠けるものも行き過ぎるものもないということです。このことから三宝に対しての確信の表現が生まれてきます。ブッダは正自覚者であり、ダンマはよく説かれ、尊いサンガは拝されるに値するものである[§71?]と。実際的な言葉で言うと、これが意味することは、善を育む人間の能力というのは、死のないことへと導くものであり、また死のないことは最高の質(highest excellence)であることです。

いくつかの句[§87?]は、預流果を経験することが、真実の法がブッダの教えにおいてのみ、完全に説かれているという確信を強めるものであると、強調しています。この点は仏教のほかの宗教に対する長い受難*5・「忍耐」(tolerance)の歴史に気付いている多くの人々にとっては、驚きであるでしょう。また他の教えに対しても、悟りがあるということは、山の頂上への行き方がいくつもあるということの裏書だ、と信じている人々にとっても。この行き方はいろいろあるという仮定ですが、これは、「忍耐」と「裏書」との間の混乱に基づくものなのです。われわれがすでに気に留めているように、預流果の見方からいけば、八正道は、悟りへの道の理想的な表現方法なのです。同じ目的への違う道を裏書しようとすれば、八正道に比べれば行き過ぎたり、何か本質的なことを欠いたり、または余分なことを含めてしまったりするでしょう。ブッダがこのように言ったとされています。悟りへのまた別の道は、あきらかに間違っている。間違った見解、間違った思考、間違った言葉、などなど。そのような道から結果を得ようというのは、ブッダがおっしゃるに、小石から胡麻油を搾り出したり、水からバターを作り出すようなものだ[MN 126?]ということです。ブッダは他の教えでも、徳や集中力を積むことができると、また大いなる平穏や高い天界への再生へ続くものだということを否定しませんでした。しかし、もし、この到達点がニッバーナと同じものだと見解を抱いてしまうなら、その誤った見解により苦しむこととなります。その誤った見解にしがみつくことは、ニッバーナと共にある完全なる解放を手の届かないところに押しやってしまうことになります。

このような他の道を裏書(支持)(endorse)したくない/相容れないことは、必ずしも耐えられないこと(intolerance)*6に結びつくわけではありません。仏教の基本的な前提は、カンマの法則であり、それによると楽と苦は、過去と現在の行為の結果であるということになります。八正道はこの原則からもっとも善なる行為の様式として、カンマの輪から脱し、不死へと到達するためのもっとも善い方法となります。他の道は八正道の不完全な表現か、また別の原則に基づいたものです。例えば、カンマの法則を横にそれて、八正道をマスターすることなく、自分の幸福を分け与えることができるものが存在するというかも知れない。あるいは、儀式や言葉が幸福への同様の近道を提供すると主張するかも知れない。これらの2つの信念に基づく人たちは、すぐに自分たちの信仰とは違う道の外の人たち(outsiders)に脅かされることとなります。というのは、道の外の人たちは自分たちが望みを抱いている近道を無視しているように感じるからです。これにより、そのような(見解を持つ)人々がしばしば違う見解を耐え難く思うわけです。*7

しかし、カンマの原則は完全に個人的な責任についての教えなので、誰もカンマを信じるものは、それをショートカットするやり方を教えるものによって、脅かされているとは感じません。まだ預流果に達していない仏教徒は、信において揺らぐかも知れません ― 道が長く、耐えねばならない(arduous)ように思え、結果が起こるのはゆっくりのように見えて ― そして、これがカンマの原則を否定するものと関わらないように言われている一つの理由です。しかし、悟りの初めの味を味わったものにとっては、どのようにしても、原則を疑うようには仕向けられません。というのは、彼らは、不死というものが、自分の精神の作用について、とってもマインドフルであり、智慧を適用しえたそのプロセスを通じてのみ、達成できるものであると知るからです。彼らの、他の教えに対する態度というのは、まだ慣れていない人に対する熟練工のものであり、あるいは、ゴマからゴマ油を取るやり方を知っている女性が、まだ小石からごま油を取ろうとしている人を見るかのようです。彼らがもし聴く気があるのであれば、正しい道を教えてあげたいけれども、聴く気がないのであれば、その無知を耐え忍び、いつか、学ぶ準備ができるであろうことを楽しみにしておくほかないのです。

このレベルの揺るぎない確信にいたるためには、ダンマを実践する必要があります。このようにして、知的な信と実践的な信が密接な関係を持ってくるわけです。ひとは実践できるためには、知的面でもあるレベルまでダンマを 教義的にも知っている必要があります。そして、そして、ダンマの教えへの確信が揺らぎないものとなる、不死の法に達するまで修習する必要があります。註釈はこの点について、法という術語を3つのレベルに当てはめて説明しています。教義、実践、境地の3つです。あるいは別の言葉でいえば、ダンマは(知的なレベルでは)気付きの対象であり、(実践的なレベルでは)気付きをその対象から解き放つ手段であり、また(悟りのレベルにおいては)気付きにより解放されたものです。

預流果となる前の確信の実際的な側面は、預流果の要素として挙げられている「ダンマにそっての実践」と呼ばれるものに出ています。この要素が意味するものは、ある人が喜んでダンマをかれの「選択基準」(preference's) にもってくるなら、かれはただ好き嫌いに沿って実践を行っているのではないということです。これはその人の確信についての真実のテストになります。他の基準に合わせて教えの中からピックアップし、選んでくるのは簡単です。ここ西洋では、ダンマを西洋心理学や他の科学に対比させて、判断し、取捨選択を行います。しかし、かれは自分自身にシッダッタ王子自身が行った質問をしなければなりません。どれが時間を使って行なうに価値あるものだろうか。変わり死すべき対象なのか、理想についての達成なのだろうか、不死への達成なのだろうか。仏教の伝統のなかでずっと続いてきた見方である、一部の教えに沿うだけでも御利益を売ることができるという認識にも関わらず、ダンマはその完全なる結果を、ただ、人が自分自身をその解脱への善なる方向へ、思い、言葉、行い、すべてを完全に開発しようとしたときにのみ、完全なる結果をもたらすこととなります。この訓練は医師の処方に従うのに例えられます。人はたまにその処方に従うだけでも、利益を売ることができるでしょうが、完全なる治療はその処方に常に固く従い、自分のほかの好悪とは関係なく回復というゴールをまず第一に置くことです。 解放の効果がきちんと発揮されるためには、人がその優先順位を教えと、その教えを行った人を例として、第一のガイドとして、他のすべてのことを第二義的なものとしてみなす必要があります。

このことにより三宝への信を表明するお決まりのあの言い方が出てくるのである。ブッダは正しく自分で悟られた、ダンマはよく説かれた、そして聖なるサンガは褒め称える価値のあるものである[§71?]。これが意味するところは、実際の意味で、人間が努力して善を重ねる(develop skillfulness)ことにより、不死に至ることができると、疑を超え、信に至ることとなる。そして不死は最高の境地である。

(以上)


*1 改訳要
*2 嫌がる心。怒りや悲しみや苛立ちなども含む
*3 訳注:「因果の鎖」とすべきかも知れないが、「転法輪」などからの連想により「輪」とした。
*4 要改訳
*5 いまいち読みきれていない
*6 要改訳。たぶん「矛盾することではない」という意味。
*7 要改訳。特に後半