内面を見ること(Looking Inward) / A Basic Order in Life


内面を見ること(Looking Inward)

生活の基本的な決まり 1964年1月29日

ダンマの実践をする人の日常生活でもっとも大切なことは、戒を守り、自分の人生について気遣う以上に、戒を守ることに対して気遣うように、聖なる方々から賞賛さえっるようなやり方でそれを守ることです。もし戒に対してこういった種類の気遣いがなければ、それに反する悪徳があなたの日常の癖となってしまうでしょう。

戒を破ることが些細で大したことでないと捉える瞑想者は、修行全体をダメにしてしまいます。これらのダンマの初歩的なレベルの基本さえ守れないのであれば、築き上げようとしていた成果が、実践のもっと後の方の段階で壊れてしまうでしょう。これが、あなたが戒を基本的な基礎としてしっかり守り、自分の行いのことごとくを、その基準から外れていないかを見張っておくべき理由です。そうしてのみ、ずっとずっと正確に患いを取り除くための実践から利益を得ることができるようになります。

もし、煩悩の炎を何も恐れずに自分の感覚から出てくる渇愛やら欲望やらに単純に従って行動するなら、この生でも来る幾多の生においても苦しむなければなりません。もし良心、つまり劣った行為をしたいという思いに対する恥、行なった場合の結果への恐れを持たないならば、あなたの実践は日に日に悪くなっていくだけです。

もし生活上に何の規律もなしで生きるなら、戒に伴うような基本的な規律もなしで生きるなら、煩悩から脱する境地に至る道はありません。自分自身を検査しないといけません。思い、言葉、行い*1で、どのように戒を破ってしまうものなのか。 単純に物事を過ごし、戒を破り煩悩に従うことによって起こる害を見て、自分を検査する機がなければ、私たちの実践はどんどん低く沈んでしまいます。煩悩や患いを消す変わりに、ただ渇愛の力に屈してしまう結果となってしまいます。

このような場合、どんな損害があるのでしょうか。どれだけの自由を心は失うのでしょうか。これは自分自身で分からなければならないことです。それがしっかりと分かったなら、より高度な内容でも自分を検査できて、確かな結果を得て、無意味なことにはならないでしょう。 このような理由から、渇愛や煩悩がどんな形であり、どんな行為であれ、姿を現したら、それを捕まえて心のなかで何が起こっているか検査しなければなりません。

本当の気付きと智慧により、気に留めることができたなら、煩悩の毒と力が見えてきます。それらにはうんざりし、出来る限りのことをして消したく思います。 しかし、煩悩で物事を見るならば、すべては問題ないということにもなります。これと同じことは、お気に入りの人がいる時にも起こりがちなことです。その人が間違えた行いをしても、かれは正しいというでしょう。これが煩悩の働きです。煩悩は私たちの行いはすべて正しくて、責任はすべて他の人たちや物事のせいにします。そういうことなので、渇愛と煩悩が感情を通して作り出す「自己」というこの感覚は信用できません。まったく信頼に値しません。

煩悩という暴力、あるいはこの自己の感覚、それは森を焼いたり、家を焼いたりする火のようなものです。それは誰の言うことも聴かずに、ただ燃やし尽くします、あなたの内部を燃やし尽くします。それだけではありません。いつも他の人に対しても火をつけるのです。

患いの火、煩悩の火は自分自身を見つめることのない人たちや、そこから逃れる実践手段を持たない人たちを燃やしていきます。こういった種類の人たちは煩悩の力に抗うことはできず、渇愛が連れて行くところにはついていかざるを得ません。それらが引き起こされた瞬間に、あとについていくことになります。煩悩により引き起こされる心のなかの感覚が非常に重要なのはこうした理由なのです。その感覚によって、恥を感じることなく、悪事を行なうことによる結果にまったく恐れも抱かず、物事を行なってしまうことになります。それは戒を破ることを確実に意味しています。

一旦、煩悩に付き従ったなら、それらは本当に満足します。他の人の土地に火をつけて、自分たちは愉快に感じる放火犯たちのようです。誰かのことを悪いやつだとか、悪意のあるゴシップを広めたりするとすぐに、煩悩は食い付きます。自己というあなたの感覚もそれを好みます。なぜなら、そのように煩悩に従って行動することは、本当に自己をも満足させるのです。結果として、戒とは反対の方向の悪徳で満たされ続け、知らず知らずのうちにまさにこの人生において地獄へと落ちることになります。そういうことなので、煩悩があなたに為す暴力については、よく見張っていてください。そして彼らと付き合いを続けるべきなのか、彼らを友達と見なすのか、敵と見なすのか…見極めましょう。

間違った見解や考えが心に浮かんだら即座に、それらを分析して、私たち内部の事実を見つけるように内省する必要があります。煩悩が、他人の間違いに焦点を当てたり、他にどんな出来事を起こそうと、私たちは翻って内部を見るのです。「私たちが自分自身の間違いを自覚し、自分の感覚に至る」そのとき、それこそがダンマの研究、ダンマの実践が本当の報酬をもたらすときなのです。

(以上)


*1 「身・口・意の三業」ともいう