Wings to Awakening / PART3 / Right Concentration


Wings to Awakening/PART3

E. 正しい集中(Right Concentration)

英語原文

このセクションの句は、適切な注意を促す3つの質問を元に、正しい集中(正定)を扱います。

  • 何が正しい集中であるか。
  • それにはどのように熟達するか。
  • それは何の役に立つのか。

最初の質問に答えるには、§148?句が、集中を心が一つとなっていること、しかし心が一つになっているからといって、すべての場合が正しい集中とはいえないと定義しています。§102?句では、正しい集中を四禅 -- 瞑想による没我 -- と同じとしています。そして、§152?句では、禅定(ジャーナ jhaana)が正しい集中と言えるのは、ただそれが不善の資質に染まっていないときにのみ限ると、論点を明らかにしています。感官の情熱への没我、例えそれがとても一つにまとまった状態であったとしても、道への部分には入りません。このように第一のレベルの禅定の定義としては、心が感官と不善の資質から離れたときにのみ、道の要素と言えることを特定します。

禅定で一つになる(一境性(いっきょうせい))という言葉が意味するのは、気付きが単一の対象に集中しているだけではなく、対象が気付きの全体を満たすだけの一つの質に変わってしまうことです。それと同時に、対象の全体に浸透するまでに気付きも広がるということを意味します。 気付きと対象が広がっていき、相互に浸透するさまは、没我という言葉で意味されるところです。禅定のさまざまなレベルを描写する喩えは、繰り返し、「拡大(expansion)」「浸透(suffusing)」「伸張(stretching)」「遍満(filling)」について述べています[§150?; also MN 121?; MFU, pp. 82-85?]。第四禅では身体が気付きの明るい感覚で満たされると述べられています。この広がっていく感覚と単一になる感覚は、特定の瞑想の技術を教える句においても、示されています。息を心にとどめておくという指示においては、例えば、息を吸い、息を吐く間、身体全体に気付いているように述べています。ここでは、禅定の心の状態を説明するのに、「マハッガタ*1」-- 拡大された, 伸張された -- という用語が使われています。

基本的な禅定のタイプに2つあります。注釈は「色界禅定(ruupa jhaana)」と「無色界禅定(aruupa jhaana)」と名付けています。どちらのタイプも何段階かあります。色界禅定の場合、経典には段階について違った言い方で説明している句が見つかります。 この違いは「色 ルーパ」という語にまつわる2つの違う感覚によるものです。

  • ひとつの見方では、「色」は身体を指し、色界禅定は物理的な肉体への精神の没我状態で、内部から感じられるもの(as sensed from within)*2となります。 この種の色に集中する禅定は4段階となっています、それは集中力についての定義[§72?]にある4段階や、八正道の正定の定義[§102?]と同じものです。
  • もうひとつの見方では、「色」は、ある瞑想者がその瞑想の途上で心の目で見る形と光を指しているとなります。 このタイプの色界禅定は2つのパターンに分析でき、1つのパターンは2段階[§164?]に、もう1つのパターンは3段階[§163?]を含みます。どちらのパターンも最後には、「美」を感受します。それは働きで言えば、「色」を身体とみた禅定の第4段階に身体を満たす輝きの感覚と等価のものです。

色界禅定を修する人に、美しい輝きの感覚を伴って、平静さが経験されることがあり、それは禅定の無色界、経典が4つの「色界を超えた無色界」と呼ぶ段階への礎になります。これらは一貫した定義があり、「無限の空間*3」「無限の意識*4」「何も無い*5」を感受しながら段階的に没我を深めていき、「想があるでもない無いでもない*6」といった四段階目へと続いていきます。

どのように正しい集中をマスターするかという2番目の質問に来ました。§154?句が示すところでは、「色界」を集中の対象とするする第一の段階の禅定に達する可能性は、五蓋を回避することに掛かっています。なぜなら、それらを回避できたことから来る自由の感覚は、喜悦の感覚をもたらし、それが心を現在の瞬間にうまく留めておくからです。この過程をどのようにマスターするかは、後で出てくる、ブッダの、瞑想についての最も詳しい指示 -- 息を心に留めておく16段階の実践[§151?] -- に一番よくあらわされています。そして、それは四段階の禅定の説明と対比[§§149-150?]されています。ですが、これらの実践の地図を分析する前に、その地図をうまく使うにはどうすればいいか、いくつかコメントをしておかなければなりません。

はじめに、禅定の実践に際しての内部的な障害物は、先のセクションで出てきた五蓋をさっぱりと掃除する初歩的な段階では終わらないのです。もっと精妙なレベルの不善な心の状態というのが出てきます[§§160-61?]。気付き(mindfulness)や警戒(alertness)が途切れると、五蓋が戻ってくる余地が開きます。このようにして、集中力のさまざまな段階の地図を見るだけでは、スムーズに不可避的に進んでいくようですが、実践における実際の経験というのは、そのようではありません。この理由で、実践途中でこのような障害が現れてきた場合にどう扱うかについて、ブッダは特別に指示を出されました。§159?句は5つの基本的なアプローチ、最初の2つはもう前のセクションで見ました。あとの3つは、

1. 障害を無視する
これは気の散ることに注意を向けると、それに大きくなるよう餌を与えているようなものだという原則に基きます。おかしくなった人に注意を向け続けるようなものです。たとえあなたがその人に、ただどいてもらおうとしても、それによって、その人は向きになってまだそこに留まろうとしてしまうでしょう。
2. 気晴らしの思いを考えるという行為は、実際にはその思いを考えないことよりエネルギーを使っていると気付くこと。そしてそれに付いていこうとする緊張やエネルギーの動きが起こったら何であれ意識的に緩和すること。
この方法は、思いに伴って顕れる肉体的な緊張のパターンを見ることができるほど敏感になっているときに、一番有効でしょう。そしてその緊張を意図的にリラックスさせるのです。
3. 最後の方法は単にその邪魔な思いを心から追い出すように力を集め勤めることです。
これは、気付きが固く、決意が強い限りにおいて、一時的に、塞き止めることができる方法です。それは智慧がまだ、他の方法が使えるほどには鋭くないときに有効ですが、いったん智慧がその仕事に耐えられるほどになれば、他の方法の方が長い目で見ればもっと有効となります。

実践の地図を理解するにあたって、もうひとつ心に留めておく必要のあるポイントは、それは瞑想の段階をリストしているのであって、経験される順番に並んでいるわけではない点です。それがマスターされるべき順番に並んでいます。たとえばこんな場合があります。実践の途中で喜びを経験しているとしましょう(息の瞑想の第5段階)。ですが、身体全体に気付いて息を吸ったり吐いたりできる(第3段階)前であるとします。 そのような場合には、達したレベルまで跳ばしていかないこと、前の段階を学ぶ必要がなくなったなどと感じないことが重要です。その代わりに -- 異なるいくつかの体験が一緒に混ざって起こってきたときには、よくあることですが -- 地図を使って、瞑想を技術として開発していくには、まずはどの体験に集中する必要があるのかを知るようにするべきです。

ここで明らかにしておきたいのは、悟りを得るためにすべてのレベルの集中をマスターする必要はないということです。集中と智慧の関係は、議論を呼ぶ主題ではありますが、後のセクションでこの問題は扱うので、ここでは単に多くのテキスト[§§173-74?]が、第一禅の経験が悟りへ導く智慧の基礎として十分なものだということを指摘していることを覚えておきましょう。

より高い段階がある場合には不要だという事実は、しかしながら、余分だということを意味するわけではないです。多くの人々は、瞑想の技術を開発しながら、心が自然に深い静寂の段階へ進んでいき、そこでは洞察が起こるわけでもないということがあったりするでしょう。 彼らにとっては、この地図はいくつかの理由で貴重な助けになります。まずは、地図は何が悟りに関係があって、何が関係ないかを示してくれます。実践の中でより精妙な気付きの段階に到達したとき、目的地についたのではと仮定することはありがちなことです。ですが、自分の体験を地図と比較して、体験が単に集中のより高い段階だということが分かるのです。さらに、別々の段階に気付くことは、それらを達成したあとに、あるレベルからもう1つのレベルへ移るときに、どの心の要素が働いて組み合わさっているかの洞察を得始めます。この洞察により、心における原因と結果のパターンが理解でき、§182?句が示すように、厭離(dispassion)*7の感覚へ続き、究極的には悟りまで進むものです。

しかしながら、地図は前もって実践の計画を立てておくために使うべきではありません。これは§162句?のメッセージにあるように、実践のさまざまなレベルの知識に基いて、自分の修行の道筋を調整してはいけないと指摘するものです。 他の言葉でいえば、地図から拾った考えをもとに禅定のある状態をでっちあげようとしてはならないということです。 ある特定の段階に届いたら、次の段階にいこうと焦るべきではありません。その代わりに、その段階の心によく馴染むようにして、自分がマスターしたことを完璧にするべきです。そうしているうちに、集中状態が自然に熟して、次の段階に進むことでしょう。この句の言わんとするところを進めると、違った草や水を味わうために別の餌場に跳ぶことはない、なぜなら、新しい草と水はまさしく自分の餌場に生えてくるからです。

最後に、集中のさまざまな段階に渡る地図が網羅的で完全なものに見えたとしても、覚えておいて欲しいのは、それは正しい集中の段階を示してはいますが、誤ったほうのいろいろな例は示していないということです。 §152?句に述べられている誤った集中のタイプに加えて、とても静かではあるけれど正しいものには不可欠な気付きが欠けている心の状態が存在するのです。 これらの段階のひとつは、ボーッとした(blurred)状態 -- 本質的には、無知の集中ですが -- 起きるのと眠るのとの間の状態であり、その状態では対象もぼんやりとして、よく分かりません。 それとは別で、心がどこに集中しているのか、あるいは起きているか眠っているかもはっきりとしない状態があります。このまた別のタイプの誤った集中を、ある現代の瞑想の伝統では、長部経典 1 にちなんで、感受のない(asanni)*8状態と呼びます。 この状態は、本質的にはかすかな怒り -- 何の対象にも留まらないぞという強く集中した決意の結果 -- による集中なのですが、すべては止まったように見えて、心はまっしろになり、いろかたちや音の感受もなく、自分の身体や考えの感受もないのです。 ただ、かろうじて、気を失っているわけではないとか眠ってしまったわけではないと気付くには十分な気付きの力があります。そこには長い間留まることができて、しかも体験はほんの一瞬のように思えます。修行者はその状態からいつ出るかを前もって決めておくことさえできます。しかし、そこから出ると、その人はなんとなく眩暈がするような(dazed)、酔ったような(drugged)感じになるでしょう、それはそもそもその状態に導いた強い怒りの力が集中したことより引き起こされる反応です。

これらの点を心に留めて、今度は息の瞑想によって禅定をマスターするのはどのようにしてか、地図が答えるところを見ていきましょう。先に触れたように、心に息を留めておく実践は、経典が細部にわたって教えている瞑想方法です。これには2つ考えられる理由がありますが、一つは歴史的なもの、そしてもう一つは理論的なものです。歴史的な関連からすれば、息は、ブッダ自身が悟りを開いた夜に集中していた(focal)点でした。理論的な見地からすれば、息を対象とした集中状態は、縁起の教え[§§218?, 223?]で言うところの「形成されたもの」(サンカーラ)の要素を形作るすべての要素が合う場所となるからです。

息の瞑想の最初の2段階[§151?]は、方向付けられた考えと評価からなる単純な仕事です。自らの考えと注意を息において息それ自身に向けて、現在の時点にいます。そして同時に息の長さのバリエーションを知り、それを評価します。 ある現代の教師は、ここでいう評価の要素はまた、できるだけ息が楽になるようなリズムに調整する基礎として、息の長短を観察している面もあると主張します。なぜなら禅定の第1段階は、喜びの感覚に基いている[§238?]からです。

残りの段階は、意志や決意によるものです。「自身を訓練」するのです。最初は意識的に気付いている感覚を操作して、身体全体に敏感になるようにしていきます。そして、気付いている身体の感覚を操作して、「身体の形成作用」-- つまり息 -- を鎮めていくことにより、身体の感覚は単なる静穏にまで微かなものとなり、喜びと楽しみがある平穏な感覚が生まれてくるでしょう。息の瞑想の段階と禅定の生き生きとした喩え[§150?]を比較すると、5番目と6番目の段階は -- 喜びと楽しみを感じていますが -- それと同時に、身体全体に浸透することにより、これらの感覚は「一つ」もなっています。ちょうど風呂番(bathman)が、身体を洗うボールに水を遍く浸し、こねて(knead)いるようなもので、「一つ」になっています*9

身体の形成作用も静かになり、心の形成作用 -- 感覚*10と感受*11 -- が起こっているのが、当たり前のように明らかになってきます。ちょうど、ラジオが正確に波長に合わされたときに、 ノイズが無くなって、その波長で電波を飛ばしているラジオ局のメッセージがよく聞えるようになるのと同じです。 これらの心の形成作用もまた、鎮まり、禅定の比喩で静かな水で表された第3段階が、湧き水の第2段階に代わって、顕れます。 残っているのは単に心それ自身の感覚であり、身体が頭からつま先まで、一つの明るく輝く気付きに一体化する第四禅のレベルと対応します。これで四念処[第2部 B. 四念処]のうち、第一段階は完結します。

この境地(stage)までくれば、10段階から12段階は、集中の技術をマスターしてきたことを振り返ってまとめるために、注意を向けることを示しています。*12 これは息ではなく、息に関連付けていた心自体へ集中を移し、禅定のさまざまな段階をおさらいすることで為していきます。 こうすることにより、心が満足させられ、定められていく過程における、いろいろな過程を感受することになり、禅定のさまざま異なるレベルに移り行く際に、心が捉われなくなっていったさまざまな要素 -- 例えば、第二禅から第三禅に心が移る際に、心が喜びから解放されるなどです[§175?]。 禅定のレベルが異なれば、息も違う感じがしていたものだけど、その原因は息というより、ひとつの没入する活動(preoccupation)を巡って、さまざまな心の活動を捨て去っていくことによって、息に関連づいている心のあり様が変わったためだと、このようなことも分かるようになります。 禅定の段階を上がっていくことにより、方向付けられた考えや、評価する考えは静まり、喜びは薄れて、楽しみは捨てられます。 修行で培われた集中の技術をまとめるのに、もう一つのやり方は、完全な集中を妨げるちょっとした煩悩を精査していくことです。 いまや心に集中しているという事実が、これらの煩悩をはっきりと見ることを可能にして、そして、それら煩悩から心を解き放つことによってもっと集中が高まることになります。§161?句は、特に瞑想中に映像が浮かんでしまう問題に的を絞ったものではありますが、どんな瞑想者でも集中の妨げとなる微細な煩悩について役に立つチェックリストとなっています。うずらを捕まえるときに、緩すぎでもなくきつ過ぎでもなくつかむというイメージは、仏教の瞑想マニュアルにおいて標準的なものとなっています。

9段階から12段階まで*13で開発された集中の技術は、心を集中させていく過程において、「満足」「定めて」「解放」といった望む結果を得るためには、どういった原因となる要素をマスターしなければならないかと知らねばなりません。これは原因と結果のパターンを知る智慧を開発するすばらしい機会となります。 いくつか前のセクションで述べた善なる行いの基本的なパターンが、ここに働いています。その智慧は集中の技術を開発するなかで使用していくことにより、研ぎ澄まされ、強くなっていきます。これは[第2部 B. 四念処]の2段階目 -- 現象が起きて去っていくさまに集中する -- に対応します。

これらの段階の間に起こりうるもう一つの発展は、息の瞑想それ自体からは離れてしまうのですが、第四禅で養われた平静さを、他の、より精妙な心の対象に適用した場合、どのようになるかの発見です。これらは4つの無色界禅定 -- 空間が無限である次元、意識が無限である次元、何も無い次元、想があるでもない無いでもない次元です。 これらの状態は有り得ないほど抽象的に聞えるかもしれませんが、実践のなかで実際に、第四禅の身体の静穏な感覚に心が関係している仕方から、直接これらの状態は育ってきます*14。 心が意識的に、(心のレベルでの)身体の形についての想を無視したときに訪れます。その形を取り巻いていた空間の感覚がその代わりに残ります。第2番目の段階は、心がその「空間」の想も捨てたときに訪れます。限りのない気付きの想が残ります。 第3番目の段階は、「気付き」の想だけになった状態が手放されたときに訪れ、想が働いていないような状態が残ります。第4番目の段階が想が働いていないということも捨て去ったときに訪れます。 残るのは、想がとても精妙になって想とはほとんど呼べない状態ですが、それはまだ存在します。修行者がこれらの段階をマスターしていくときに、最初の4段階の禅定は、一つの対象に心が集中する活動の状態において区別できますが、4つの無色界禅定では、心が張り付くレベルがとても微妙なものとなっているので、ただ心の対象によって区別されることとなります。

§162?§164? の句は、非想非非想処の次元を超えて、もうひとつ瞑想の境地 -- 感覚と想の停止 -- があることをリストアップしていますが、これは質的に他の境地とは異なり、同時に少なくとも不還果に悟ることなしには、この境地に到達できないのです。 その背後の理由は、もう一度、縁起§218?にある「形成作用」(サンカーラ)に関係してきます。 禅定の段階をマスターしていくにつれ、言語的な形成作用は、第二禅定に入ると静まり、身体的な形成作用は、第四禅定に入ると静まります。そして、心の形成作用がこの最終段階に入ると静まります。すべての3つのタイプの形成作用が止まるので、無知 -- 形成作用の条件 -- もまた止まりますが、これは悟りへ続く洞察と共にのみ起こり得ます。

瞑想が深まっていく段階のリストの最後まで来ましたが、息の瞑想の最後4段階の説明が残っています。これは、9段階目の境地は別として、マスターする段階は、悟りを形作る智慧を開発することなしには、達成されないためです。 while 息の瞑想の最後の四段階は、特にその智慧が顕れることを扱っています。 ここで、導入部の最初に出てきた三番目の質問「正しい集中はどのように役立つか」というところに来ました。

§149?句は、集中の使い方について、4つ挙げています。

  • いまここで楽を感じて住む
  • 智慧と洞察(vision)の達成*15
  • 気付きと注意深さ
  • 漏煩悩(effluents)の終焉

最初の使い方は、単に禅定の体験を楽しんでいるだけです。2番目は、最初の5つ*16の超常的な力[第2部 D. 四神足?]と関係しています。3番目は、[第2部 B. 四念処] の開発に関係しています。4番目は悟りを構成する智慧に関係しています。2番目と3番目の集中の用途については、先に上げた句で扱いました。なので、1番目と4番目が残っています。

経典[MN 138?; MFU, pp. 114-15?]によると、瞑想者は禅定にある楽しみに「縛り付けられ、足枷となる」ことがあると指摘しています。その結果、多くの瞑想者が祝福に満ちた静穏な状態に心を落ち着けておくのを、行き詰まりに陥らないようにと、恐れてしまいます。しかしながら、経典では、預流果に達するには、禅定の経験がなくても良いとは一度も言っていません。そして[AN 3.88?; MFU, p. 103?] では、不還果には集中をマスターすることが必要だと明示的に述べられています。 MN 36?は、 苦行の道を捨てて、中道へ転換したときに、禅定での喜びの中には何も責めを負うことはないと認識したブッダ自身の修行においての転換点に関係しています。 このようなわけなので、恐れることはありません。

この喜びは修行上で重要な役割を果たします。 まずはじめに、そのおかげで心が現在に心地よく留まることができ、洞察を得るために必要な安定性を得ることの手助けとなります。 このことは、科学的な実験のなかで、信頼できる計測のために計測機器をしっかりと動かないようにしておくことと同じだと言えます。 第2に、禅定のより精妙な喜びに心を「チューニング」するには、大変な鋭敏さが要求されますが、修行が鋭敏さを高め、それにより最高度に精妙なレベルでの苦についても同様に鋭く気付くことができるようになります。 第3に、禅定の喜びや平静さというものは感官の喜びに比べると、深く味わい深いものであるため、また五感からは独立して存在するものであるため、それにより心が感官の喜びにはあまり巻き込まれなくなってきて、感官の満足を探す傾向がなくなってくるのです。


*1 パーリ語 mahaggata
*2 分かっていないので、訳が良くないです。
*3 空無辺処(くうむへんじょ)
*4 識無辺処(しきむへんじょ)
*5 無所有処(むしょうじょ)
*6 非想非非想処(ひそうひひそうじょ)
*7 もう少し適切な訳があったはず
*8 後ほど調査したいが、a + sa~n~naの形容詞形なのではないか。つまりasa~n~niでは
*9 この当時の風習も関係しているのでしょう。経典の日本語訳も参考に後日、改訳します。
*10 訳注:ヴェーダナー
*11 訳注:サンニャー
*12 10.心を満足させて息を吸い吐く。11.心を定めて息を吸い吐く。12.心を解放して息を吸い吐く。
*13 9.心を見つめて息を吸い吐く。10.心を満足させて息を吸い吐く。11.心を定めて息を吸い吐く。12.心を解放して息を吸い吐く。
*14 直訳なので分かりにくいですが、要は第四禅からつながっています、ということだと思います
*15 超越的な能力の説明なので、訳語がふさわしくない。「千里眼」のような意味である。
*16 fiveとあった。四神足への参照ではあるが