内面を見ること(Looking Inward) / An Hour's Meditation


内面を見ること(Looking Inward)

一時間の瞑想 1977年3月3日

英文

瞑想のために座ったことがない方々のために、どのようにするか言いましょう。

足を組んで、片方をもう片方の上に乗せます、でも神経系や血流を妨げないようにしてください、妨げてしまうと息のエネルギーがあなたの足に滞留してして痛みを生じたりもします。まっすぐ座って手を腿の上に重ねておいてください。頭、首をまっすぐにして、背中もまっすぐ伸ばしてください。あたかも棒が脊柱を通っているかのようにです。まっすぐにしておくには気を付けておかねばならないでしょうね。ふにゃっとなって、また背骨を伸ばしてなどと、そういうことに時間を使わないでください、そんなことをしていると心は落ち着いて留まることが出来ないので…。

体をまっすぐに保って、気付きを固くしてください。固く息に気付きを留めてください。あなたの息が粗くても精妙でも、ただ自然に息をするだけです。息を強めたり、体を緊張させたりする必要はありません。ただリラックスして、息を吸って吐くだけです。そうしているときにだけ、心が落ち着き始めます。息が普通に精妙になってきて、心が落ち着き始めたらすぐに、注意を心それ自体に集中させてください。心がどこかへつるっと逸れてしまったなら、あるいは他の思いが侵入して来たなら、まさしくそこで心で知るのです。心を心でじかに知ることを、入ったり出たりする息とともに、一時間たっぷり行なってください。

息に集中していて、心がどこかふらふらさ迷わないように繋ぎ止めておく綱として息を利用しているときに、忍耐を使わなければなりません。言ってみれば、痛みに耐えなければなりません。例えば、長い間座っているときに痛みが顕れてきます。なぜならそんなに長いこと座ったことはなかったでしょうから。なので、最初に心を通常のように、平静な(neutral)ように保つ決心をするのです。痛みが起こったときに、痛みに集中しないでください。できる限り、それを放っておいてください。放っておいて、あなたの心に集中するのです…。こういうことを以前にしたことがないあなた方にとっては、ちょっと時間が掛かるかもしれません。痛みや他の何かが起こって、心が欲や煩悩に感化されたなら、痛みは欲しくないので心は戦うでしょう。それが欲しいのは喜びだけなのです。*1

ここであなたは辛抱して痛みに耐えなければなりません。痛みは起こってくるものですから。もし楽しみが出てきたら、それにも巻き込まれenthralledないでください。痛みがあったら、それを押しのけないでください。基本的なあなとの立ち位置としては、心を平静(neutral)に保つということです(Start out を訳してない)。そして、喜びや痛みが起こったらいつでも、喜んだりもイラついたり(upset)もしないように。心を引き続き平静に保ち、放っておき方を見つけて(figure out)ください。もしとても酷い痛みがあれば、最初はそれに耐えなければなりませんが、次にその執着を緩めてください。痛みを自分の痛みだとは考えないのです。それを体の痛みとして、自然の痛みと放っておいてください。

もし心が何かに固くしがみついているなら、心は患います。それは戦います。そうなので、ここでは我々は辛抱強く耐えて、去らせてしまいましょう。痛みを扱うのが本当にうまくなるように練習する必要があります。もし肉体的な痛みを去らせることができるなら、他のすべての患いや痛みを同じように去らせることができます…。痛みを見て、、痛みを知って、それを去らせるということを続けてください。一旦、それができたなら、あまり努力が要らなくなります。最初だけが結構大変なだけです。痛みが顕れたなら、それから心を切り離してください。身体の痛みとしてください。心にまで痛がらせないように。

これに必要となるのは、平等さ(捨)*2です。楽しみや痛みに直面して平等さを保っていられれば、心が平和です。痛みは痛みのままであってさえ、平和なのです。心は痛みを去らせるように、痛みを知り、それに耐えるということを続けます。

このようにしばらく努力してみた後、心が取る道の重要性がわかってくるでしょう。心は訓練しにくいのですが、それを訓練し続けるなら(時間があれば家でもできます)、夜や早朝に自分の心を見続けるならば、気付きと智慧*3)が熟し、分かってくるでしょう。このように心を訓練していない人たちは、生老病死からなる人生を、心について何も知らずに過ごしてしまいます。

ご自分の心を知ったなら、どんな重い病気になろうが、あなたが心のことを知っているという事実が、痛みをどんどん軽くしていきます。しかし、このようになるには正しく実践しないとなりません。それは簡単なことではありませんが、一旦心がよく訓練されれば、それに敵うものはありません。 心は痛みや患いを処理することができて、浮ついたり急き立てられたりもしません。心はじっとしていて、冷静となり、ただそこにあって、新鮮でただ充実しています。そのようなので、このじっとして静かな心を経験してみようとやってみてください。

これは本当に重要な習い事*4なのです。なぜかと言えば、それに熟達するなら、渇愛(craving 欲)、煩悩、執着がだんだん少なくなってくるからです。私たちはみな煩悩がありますね。貪(トン むさぼり)、瞋(ジン いかり)、癡(チ おろか)が、私たちの感情のすべてを覆っています。私たちが瞑想で自分自身を鍛えなければ、私たちの感情は患いとストレスで常に燃え続けます。私たちが外界の物事を通して感じる喜びでさえ、半端な喜びなのです。なぜならそれが喜びだと感じるのは癡(無知)の働きで、そこには患いとストレスがあるからです。 修行の実践から来る喜びはといえば、それはすべてを去らせて(let goは*q 手放すとすべき)、本当に「私」とか「私のもの」とかいった感覚からまったく離れた、すごい喜びなのです。 あなた方にダンマに届いてくださいとお願いしたいです。 そのダンマが、この修行から得られる一番のおいしい所で、煩悩に煩わされず、痛みや他の何者にも煩わされないことです。

身体に痛みがあったとしても、それをどのように手放すかやってみることです。身体は単に地・水・火・風の4つの要素で出来ています。それが無常であり、ストレスに満ちていることをを見続けるのです、気付きを平静に、捉われのない(at equanimity)状態で保持します。心がその感覚や、喜びや、痛みや、その他いろいろなものを超越するようにします。

それが必要としているのは忍耐と手放すこと(relinquishment)です。手放すには、それらが私たちではなく、私たちのものでえもないと見て、あるがままにさせることです。これこそがあなたが何度も何度も戻ってきて、しっかりと確認すべき(hammer at)ポイントです。あきらめたりしないでください。渇愛は訪れ続け、このようにささやきます。 何かを変えよう、これを試してみてはどうか、あの種類の楽しみはどうだと。でもあなたは聴かないのです。あなたはブッダに聴くのです。渇愛を手放すように教えたのは他ならぬブッダです。そうしなければ、渇愛は物事をコーティングして、きれいに塗装します。心は戦ってしまい、落ち着くことは出来ないでしょう。そういうわけなので、あなたは全部を投げた感じにするのです。(<= So you have to give it your all.) この瞑想の時間を特別な時間としてください。「自分の感情と心を見続ける」特別な努力をする特別な時間としてみてくださいますように。

("The mind will struggle..."の文脈での struggleは「戦う」より適切な訳があるはず)

(以上)


*1 最後の文が読みきれて居ない
*2 ここはequanimityという英語であり、パーリ語のupekkhaa. 日本語では「捨」と訳されるものである。快にも不快も超越した心とも描写可能ではなかろうか。
*3 「念」(sati)と「慧」(pa~n~naa
*4 skill to develop とあるが、これを「技術」「能力」と訳すのが、何か即物的な感じで、そぐわないように感じたので、このようにしてある