正史と演義で字の記述が全く違う人物。(演義では永年、正史では子喬)
劉璋配下で曹操への従属の使者になるが、曹操に無碍に扱われたため激怒し親劉備派となる。
外交の使者を任せられるほど頭は良かったらしく、曹操の元で楊修に見せられた兵法書を、すぐに暗記し諳んじることができたという。
演義ではここの話が大きく膨らまされており、容姿悪く風采の上がらぬ小男として描かれる。
その風采ゆえに曹操に軽んじられると、お返しとばかりに曹操自著の兵法書『孟徳新書』を丸暗記。
「こんなもの蜀では子供でも知っている」と侮辱し、百叩きにされ放逐される。
怒った張松はそのまま劉備の元に向かい、自分を歓迎してくれた劉備の器に感じ入り、劉備を蜀の主とするべく暗躍するようになる。
その後、劉備入蜀の計画が劉璋に露見し処刑されたので張松が劉備配下になった事は無いが、三国志大戦においては蜀所属の武将として登場している。
『反三国志演義』では、中国の歴史上に出てきた国を売り渡そうとする賊臣の一人として扱き下ろされるのみならず(中華民国成立以前、清朝末期に侵略する欧州諸国の軍勢に対して平然と国を売り渡す手合いに対しての「当てこすり」の面もあるのだが)、
張魯相手に狼狽える劉璋に曹操との同盟を提案して財宝と蜀の地図を携え曹操の元を目指すが、
それで自分が栄達を得たとぬか喜びして途上で毎日のように泥酔した挙句、後を付けてきた五斗米道の信徒たちに殺害されるという結末を迎える。
張松の従者は運よく難を逃れ、曹操の元にたどり着いて五斗米道討伐を進言し結果的に五斗米道は壊滅、
長江沿いを警備していた趙雲が運よく五斗米道の信徒たちが乗った船を拿捕した事で、蜀の地図が劉備の手元にわたった。、