スピノザ協会研究会(2004 / 03 / 28)レジュメ


スピノザへ向けて?

田島正樹氏発表「神の全一性と第三種認識」

  • 第三種認識
     第三種認識の定義:E2P40S2
     これを読んでも、第三種認識がどのようなものであるか分からない。スピノザが出す例も少ない。
     田島氏曰く、第三種認識の典型は、幾何学の証明(ユークリッド幾何学)である。

     では、第二種認識とどこが違うのか?
     数学の認識にも二種類ある。
      産出的認識:まったく新しい証明を見出す:第三種認識。
      確認的認識:与えられた証明が正しいと確認できる:第二種認識。
     それぞれ、カントの総合判断/分析判断と対応するのではないか。

     第三種認識は個物(個体)の認識:E5P36S
     しかし、数学の認識は普遍的(一般的)認識ではないか?
     スピノザは数学の定理を一つの個体(個物)だと考えていたのではないか(定理の適用は一般的)。
     数学的真理が神からどのように産出されたか、アプリオリな観念から産出的に理解するのが第三種認識。

     幾何学的認識以外の第三種認識。
     垂直的因果性(創発的発見):幾何学の定理の発見、詩作や種の進化:力の発現:第三種認識。
     水平的因果性:変化の連鎖を辿る:第二種認識。
      スピノザにおいては、数学的産出と種の進化は同じと考えられているのではないか。
      種は個体。種として考えられたティラノサウルスは個体。
      すべての可能性は無限の時間が与えられれば必ずや実現するとスピノザは考えていた。
    ←スピノザとライプニッツの可能性についての考え方の違い。
     スピノザとライプニッツは非常に似ている(デカルトなどよりはよっぽど)。
     ライプニッツにとっては歴史は有限(創造から終末まで)。実現する可能性はごく一部。神の恩寵によって最善の可能性だけが実現される。
  • 十全な観念
     スピノザによる円や球の定義:「直線(半円)が回転して出来るものが円(球)である」:産出的(生成的)真理観。
     =原因の観念と共にその観念が理解されたとき、その観念が十全になる。

     十全な観念とは何か? 十全な観念の定義(E2D4)を見てもよく分からない。「観念」についての批判的・否定的・論争的定義。
     E2P11Cが非常に重要。
     非十全的な認識とは我々が産出原因を知らないこと。
     故に、十全な認識とは産出原因を含めて知っていること。

     なぜ、そのような十全観をスピノザは持つに至ったのか? 二つの方向で考える必要がある(感情の治療学と反デカルト)。
  • 感情の治療学
     E5P4S
     否定的感情の克服。
     具体例:「憎しみ」の定義(諸感情の定義7)。
     「悲しみ」の定義(諸感情の定義3):活動能力が減少すること。
     完全性=活力(能動性)
     能動性の定義(E3P1&P3)。
     活力⇔十全性:両者は比例する。
     悲しみとは?
      非十全的な認識、受動性に留まること。
      悲しむ人間は自分の悲しみの原因が分からない。
      憎しみを持っているとその原因が分からない(憎しみの原因とは自分の悲しみ)。
      悲しみ(憎しみ)とは原因の外化(外的投影)。

     自分が悪いという認識も本当の認識ではない。
     本当の認識とはどんなに僅かなものであっても自分の活力に目覚めること(力の十全な認識)。
     真の自己認識→活力(能動的な力)。
     悲しみの真の原因の洞察に至るならばそれはもはや悲しみではない。
     憎しみの真の原因の洞察に至るならば憎しみは癒される。
  • 反デカルト
     デカルト:意志の自由。どんな観念でも自由意志によって疑うことができる(=精神の自由)。観念≠意志。意志は無制約(観念は制約的)。意志は神的。
     スピノザ:意志の無制約性を認めない。我々は、意志によってではなく、観念自体の持つ力によって判断する。
     現象学的な考え方(例えば「愛している」という言葉をその発話条件から考える)やプラグマティックな考え方(「愛している」という言葉を発するとき(結婚の義務などの)責任が生じている)とは全く違う。
     判断を離れて観念というものはあり得ない。信念+欲望→行為(アリストテレス(行為の三段論法)的)。行為を生み出すのだから、信念や欲望は力である。
  • 属性の全一性(神の全一性)  属性は全一性を持つ(全てにして一つである)。
     延長的属性の場合。延長は一つしかないのか?
     なぜユークリッド幾何学の公理だけが特権的に神の属性の本質を十全に表す公理だと言えるのか? 非ユークリッド幾何学ではなぜだめなのか?
     答え:我々の身体がユークリッド空間に属しており、非ユークリッド空間には属していないから。

     では、なぜ身体は一つではないと言ってはいけないのか? 空間上のそれぞれの点がまったく違う属性を持っていてなぜいけないのか? 論理的には否定できない。
     答え:身体がconatusというものを持っているから、としか言えない。私の身体が同一性を確保しながら、その都度維持し続けようと努力しているから。

     conatusは延長であると同時に思惟属性でもある(自分自身を維持し続ける努力というものは、自分自身についての観念を持っていなければならないから)。
     conatusの自己知は少なくとも部分的には十全な認識である(そうでなければ、自分自身が非十全であると認識することすらできないから)。
     十全的な観念=自己原因的な観念(自らを基礎付けることのできる観念。十全/非十全を弁別する基準となる観念):『エチカ』の冒頭の定義を定義と見なすことはできない。定義は与えられない。自己原因は直観するしかない。それによって他の論証が証明が初めて意味を持つような認識だから。conatusの自己知を十全に展開したもの。
  • 無限の実在性(カントのアンチノミー)
     悪い無限観:実在論的無限観(無限をあたかも実在であるかのように考える)。無限小を実在の値と考えると二律背反に陥る(カントのアンチノミー)。
     無限は物自体の性質ではない。無限小(大)とは操作的無限である(カントールの対角線論法)。
     スピノザはあるところでは実在的無限を考えている。
     無限を実在的に考えるスピノザ(「悪いスピノザ」)は成立しない。カントのアンチノミーに引っかかってしまう。

    「いいスピノザ」:無限の力能の中で無限を捉えるスピノザ。無限=無窮(操作的無限)。
  • 質疑応答から
    ・無力の認識というものは存在しない。無力とは力の欠如であり、そこには認識すべき何ものもないのだから。
    ・概念のアシンメトリー。実在と非実在。善と悪。真と偽。快と苦。幸福と不幸。これらの概念は対称的(シンメトリー)ではない。前者が後者を含む(そして後者は前者を含まない)という形で成立している。

上野先生発表「必然、永遠、そして現実性(actualitas)」

(仮題「決定論ではすまされない」)
 スピノザは機械論的決定論者か?
 否。もっと強い決定論、いわば「必然主義」(necessitarianism)を主張している。
 E1P33「物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった。」
 世界は別な風ではあり得ない…単なる「決定論」では済まされない。
 可能性についての通常の理解は、因果的決定論を認めても、必ずしも別の因果的連鎖の形而上学的可能性を排除しない。
 ライプニッツの必然性は仮定的な必然性に過ぎない。
 スピノザ:形而上学的にも別ではあり得なかった…必然主義。

 E1P33D(背理法による証明):事物が別な風であり得たとすると別な神が存在することになってしまう。
 無限:神には外がない(という意味に取り敢えずは解しておく)。
 神とは、必然的なるものの総体として可能なるものを絶対的に限界づけるものである(可能な現実の総体=無限様態)。
 事物が現に産出されているのと別様でもあり得たと想定するのは背理である(実体概念に矛盾している)。
 スピノザはあえて「因果的必然性=論理的必然性」だと考える。
(ライプニッツは因果的必然性は事実の真理であって永遠真理ではないと考える。)
 スピノザは、因果的必然性を、ド・フリース宛の書簡において永遠真理と言っている。
 事物が別様であり得たことは絶対的にない。
 ただし、反実仮想(虚構)自体を否定しているわけではない。
 だが、神(無限知性)には反実仮想は不可能だと言っている(『知性改善論』)。
 現実に知る能力=現実に事物を産出する能力(同じ事柄の両面)。
 必然的産出=必然的認識(E2P7C)。
 神は必然しか知らない(E2P32:すべての観念は神に関係づけられる限り必然的に真である)。
 スピノザは減点方式(普通の哲学者たちの積み上げ方式とは逆)。神から人間へ(E2P11C:無限知性の一部としての人間):人間における様相的思考は認識の欠如によってのみ可能(E1P33C1)。

 必然主義の分有度による三種の認識の区別:
  第一種認識:必然主義の分有度0。
  第二種認識:分有度1〜99:仮説演繹的。修正に対して開かれている(ただし、演繹そのものの必然性は揺るがない)。
  第三種認識:分有度100:別様であり得ぬ、その絶対的なあり得なさを形而上学的必然として理解する、しかもそれを当の認識者の現実存在の必然性として理解するような認識。

 必然主義の倫理的帰結。「リアルタイムの永遠」。
 E1P33S1:「必然」の定義。事物が存在(existensia:現実存在)することの必然性。  E1D8:「永遠」の定義:現実存在そのものが永遠。
 →現実存在はそれが必然的に生じる限り永遠である、神(実体)のみならず、様態(無限様態、有限様態にかかわらず)も。
 有限様態である我々が今ここにいること(現実存在)もまた、(定義により)必然であり永遠である。
 永遠≠時間的無限量(持続)。
   =別様ではあり得ないこと。必然性。

 E5P29S:「永遠の相の下に」…リアルタイムの永遠。
 神の無限知性は現在(産出の今)についてしか認識していない(過去も未来も知らない)。現在が永遠で必然。
 決定論が入り込む隙がない。スピノザの無限知性は無限系列全体を見渡すことができない。
 ライプニッツ曰く、機械論的・因果的決定論には充足理由が欠けている。スピノザの必然性は盲目的必然性として批判。
 スピノザは、盲目的必然性こそが充足理由だと考えていた。

 永遠はここにある、それも神と共にある。
 E5P42S:必然性=永遠性。それはまさに今にある。
「今を生きる者は永遠に生きる」(ウィトゲンシュタイン)

  • 質疑応答より
    ・盲目的というのは先取りできないということ。
    ・盲目的という言葉は人間的な視点からのみ言えることであり、神自身にとっては盲目でも何でもないのでは?
    ・必然主義そのものが現に倫理的(義務を含む)。
    ・絶対的な無目的=モノに還って行く。