すべての思考は消耗品である


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字数制限のないtwitterのようなものと考えていただき、そういうつもりで読んで(あるいは、読まないで)いただけると、比較的ストレスを感じずに済むと思われます。
メインは「サイボウズLive」(>「eノート」)に移りました。

2014年6月13日

  • [book][philosophy]
    ・『神学・政治論(上)』(スピノザ/吉田量彦 訳) - 光文社古典新訳文庫
    http://www.kotensinyaku.jp/books/book187.html
    ・『神学・政治論(下)』(スピノザ/吉田量彦 訳) - 光文社古典新訳文庫
    http://www.kotensinyaku.jp/books/book188.html

     文庫にしては高い。
     70年ぶりの新訳。しかも、岩波文庫版は絶版らしいので、今出版する意味は確かにある。
     しかし、値段が高すぎて、文庫である意味が薄れている。
     著作権は切れているから印税は訳者だけでよいはずなのに。
     想定される売上部数が少ないから、単価が高くなっているんだろうが。
     だったら、もう、ハードカバー1冊にまとめて2500円(+税)で売ればいいのに。
     それで、持ち歩き用には電子書籍版を売ればよい。
     様々な事情が絡んでいるだろうから、そう簡単には行かないのだろうが。また、類書の相場からすれば、特別高いわけでもないんだよなぁ。
     僕は、岩波文庫版が復刊されたときに購入したので、今のところ買い控え。
     Prof.Uの新著を読んで必要だったら購入しよう。

    ・筑摩書房 スピノザ『神学政治論』を読む / 上野 修 著
    http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480096258/
    (しかし、著者の写真はもっと良いものがなかったんでしょうか? なんか不気味だ(笑))

     新刊出版記念、というわけでもありませんが、途中で放棄していたProf.Uの前著の書評っぽいものと一部のパラフレーズをアップしておきます。尻切れトンボな点はご容赦ください。もし追加や修正等があったら「eノート」の方にアップします*1

  • [book][philosophy]上野修『哲学者たちのワンダーランド 様相の十七世紀』講談社、2013年。
     なぜ17世紀なのか?
     著者は「お気に入り」だからと言っているが、それだけではないだろう。
     歴史上にいくつかの切断線を引くとしたら、確実に18世紀、近世と近代の境目には引かれるだろう。
     そして、17世紀に活躍したデカルト、スピノザ、ホッブズ、およびライプニッツは近代を準備したと言える(ライプニッツは18世紀にもまたがっているが)。
     故に、現代の我々の思考、文化、社会(制度)などは、その影響下にある。だから、彼らの哲学について知ることは、我々自身のことを知ることに繋がる。
     17世紀とは、神および教会、そして、その支配下に生まれた学問(スコラ哲学)の権威が失墜した時代である。その混沌の中から新たな秩序を構築するため、その時代の哲学者たちは、既存の権威に頼らずに、自身の思考を一から練り上げねばならなかった(彼らの哲学の中にも神は出てくる。しかし、それは従来の神とはかなり違ったものである。それ故、彼らはしばしば無神論者と呼ばれた。)。故に、その試みは、一大プロジェクトとならざるを得ない。それは世界を一から作り上げるほどの途方もなく壮大な企てである。
     彼らは皆、それぞれの仕方で「無限」について考察した。なぜ無限なのか?
     そもそも、無限など我々の生活には全く縁がないように思える。人間は有限な存在なのだから、無限などというものとは無関係に生きているし生きていける――ように思える。
     だが、無限は有限な世界のそこここに顔を覗かせている。有限の底を覗けば、無限という深淵が口を開けている。例えば、円の周長を直径で割ると、そこには無限が現れる(その無限の名前を「円周率」という)。あるいは、自然数1と2の間には無限の数が入る。有限の内には、無限大から無限小まで様々無限が含まれている。それは、有限から無限が作られるのではなく(有限の否定が無限なのではなく)、無限から有限が出てくるからである(無限は有限の母である)。
     したがって、人が思考を突き詰めれば無限に行き当たらざるを得ない(だから、哲学だけでなく、数学や物理学や天文学も無限を避けて通ることはできない)。しかも、無限が有限の母胎(マトリックス)である以上、有限なはずの人間の思考も無限の一端に触れることならできる。ただし、あくまでも一端であって、無限全体を人間が(一挙に)認識することは不可能なのではあるが。
     とはいえ、有限なる我々が無限に触れるためには、何らかの手続きが必要とされる。哲学者にとってそれは論理的手続きであるが、それはデカルトにとっては「方法的懐疑」であり、スピノザにとっては「幾何学的秩序」であり、ホッブズにとってはシミュレーション(必然的な仮言命題の連鎖)であり、ライプニッツにとっては「モナドロジー」(全体化と二重化)である。
     では、彼らが各人の手法によって直面した無限の一端とはどのようなものなのだろうか? 彼らに対して無限はいかなる形で立ち現れたのだろうか?
    《たとえばデカルトの無限は懐疑が露呈させる〈不可能の不在〉に関わり、彼の確実性はそうでないことが絶対に不可能なものの発見と関わっている。「コギト」もそういう観点から考えてみる必要があるかもしれない。スピノザの無限が〈別様の可能性のなさ〉、すなわちわれわれのいる世界の絶対的な必然に関わっていること、これも間違いない。ホッブズの主権の無限は自然権放棄の取り返しのつかなさに関わっている。権力はいつから主権になっていたのか。どうして服従の義務は取り消せなくなるのか。ホッブズの中心にはいつもこの〈取り消し不可能〉というある種の様相が横たわっている。最後に、様相はライプニッツでは形而上学の中心に据えられる。ライプニッツの無限は一言で言えば〈可能の総体〉である。論理的には無限に多くの可能世界が考えられ、現実はその中から選ばれた一つにすぎない。》(p.14)
     ちなみに、「様相」(modality)とは、《可能と不可能、偶然と必然、この四つ組のことである》(p.14)。
     種明かしをすると、彼らが探究した無限とは、我々がいる、この「現実」のことである。とはいえ、それは我々が通常考えているような現実ではない。「若者は現実を知らない」などと言う場合の現実ではない。ここで言う現実とは全てである。存在するもの全て、ひょっとしたら存在しないものも含めて全て。存在するものが全てそこに存在し、存在しないものはそこへと存在する(そこに潜在する)地平。それこそが、ここで言う現実すなわち無限である。

  • [book][philosophy]デカルトの有名な命題「我思う、故に我あり」の説明のパラフレーズ
    「存在する」とはどういうことか?
     それは、「私が存在する」ということである。
    「私が存在する」と言うとき、「私」というものが在って、それが存在する、わけではない。なぜなら、「それが存在する」以前の、「『私』というものが在」る状態というのは、どうしたって考えることができないからである。
    「存在する」とは、私が現に存在しているということを含む。その両者を切り離すことは「私」にはできない。
    「存在する」ということは、私が存在するという事実以外の意味内容を持つことができない。私の存在は、何かが存在する(と言える)ことの必要十分条件である。
     逆に言えば、存在しないものは「存在する」とはどういうことなのかを理解することができない。それは、それが存在しないからではなく、それが「存在する」という言葉に意味内容を与えることができないからである。
    「存在する」は「私が存在する」と共に立ち上がる。私が存在すること抜きに、存在するということを考えることはできない。
     それが、「我思う、故に我あり」の意味するところである。
     もちろん、この段階での「存在する」は、限りなく空虚に近い。具体的には何もイメージすることができない「存在する」である。というのも、ここで言う「私」とは、私の身体ではないし、ましてや脳内を走るパルスでもないからである。どことも知れぬところに、身体も何も持たず、ただ在るだけの生(なま)の存在、それがこの段階での「存在する」である。
     比喩的に語れば、玉ねぎのように、存在を包む皮を一つ一つ剥いていって、最後に残る芯が「私」――より正確に言えば、「考えている私」――なのである。
     私が考え出すたびに立ち上がる何か、それなしには私が考えるということさえ不可能になる何か、それが「存在する」ということである。
     したがって、「私は存在しない」ということは不可能である。言い換えれば、「私は存在しない」ということが不可能であるという形で私は存在する。


*1 引き続きメンバー募集中です。現在5名です。