後漢の学者・政治家。
袁紹・袁術の従兄とされているが明確な根拠があるわけではなく、袁術の兄とする記述もあり真相は不明。
朱儁の推挙により県令として取り立てられ、山陽太守にまで出世。
反董卓連合が結成されると群雄の一角として参加するが、真面目に戦う気がなく酒宴をするばかりで曹操に叱責されたという。
その後は袁紹派につき揚州刺史として袁術と戦うが敗れ、逃亡中に部下に裏切られ殺害された。
曹操から「歳をとってもよく学ぶ奴は俺と袁遺だけ」と称賛されたとする記述は、曹丕の『典論』によるもの。
前述の通り戦意・将才の無さを曹操に呆れられたという逸話もあり、勤勉なのか凡愚なのかはっきりしない人物。
あまり乱世向きの人物ではなかったのかもしれない。