蜀の武将。傅彤の子。
父が夷陵で戦死すると左中郎将に取り立てられ、武官として仕える。
魏による蜀征伐戦に際しては、蒋舒と共に陽安関で鍾会の軍と対峙。
鍾会配下の胡烈が攻め寄せると傅僉は徹底抗戦を訴えるが、蒋舒が独断で降伏・開城してしまったため孤立。
傅僉は孤軍奮闘の末に戦死し、陽安関も陥落した。
蜀滅亡に殉じた忠義は、夷陵で殿軍を務めて散った父と共に後世に高く評価され、錚々たる名将たちと共に成都武侯祠に祀られた。
演義では鉄扇と薙刀を使いこなす剛勇の士として登場。姜維の片腕として北伐にも従軍する。
魏将・李鵬を討ち取り、一度は鄧艾をも撃退するなどその武功は華々しく、
五虎将が死去して久しい蜀漢において、最後の武闘派と呼べるほどの活躍を見せる。
最期は正史同様、蒋舒が独断で降伏・開城してしまったため奮戦の末に果てるのだが、
その散り様も「蜀の臣に生まれた以上、死して蜀の鬼とならん」と大喝して自害するという壮絶なものになっている。