曹操の同族・曹邵の子、もしくは曹操の友人にして恩人にあたる秦伯南の子と伝わる。
どちらにせよ、幼くして父を失い曹操によって我が子同然に育てられた。司馬懿との権力闘争で敗れた曹爽の父。
曹操の代では曹純亡き後の虎豹騎隊長に任命されたと言われる他、
魏王朝では曹叡の代になって大将軍に任命され、曹家・夏侯家だけでなく魏国の武官筆頭まで上り詰めている。
特に対蜀戦線においては、夏侯淵の死後に征蜀護軍に任じられ、事実上の方面司令官として対峙。
張郃・郭淮らを指揮し、蜀の侵攻を幾度となく阻んでいた。
大将軍となってからも諸葛亮の北伐を何度も阻み、逆に蜀征伐を実行する(ただし長雨のせいで蜀に辿り着く前に撤退)など
蜀にとっては不倶戴天とも言うべき相手であった。
諸葛亮と司馬懿のライバル関係を引き立たせるため、三国志演義で生前の功績を吸い取られてしまった一人。
立場が悪くなった司馬懿を庇う人格者だが、戦場では諸葛亮にいいようにやられてしまう凡将として描かれる。
横山光輝の長編マンガ「三国志」でもおおむね演義の通りで、諸葛亮からも一定の評価はされたが連戦連敗。
司馬懿の見識に触れて彼我の実力差を思い知り、後事を託して死んでしまう。
中国で製作された三国志ドラマ『Three Kingdoms』ではプライドは高いが無能な人物として登場。人格者どころか司馬懿を一方的に敵視して失脚に追い込もうとするなど曹爽が混じっているのではないかと思えるような扱いの悪さを受けた(ちなみに曹爽は逆に有能な人物として描かれている)。
最終的には孔明の罠により陳倉で討死しかけたところを司馬懿によって助けられるも、その司馬懿の手によりとどめをさされて憤死した。
かなりの肥満体であり、呉質が酒宴で太った芸人を使ってからかったという逸話が知られている。