人物紹介 / 皇甫嵩


皇甫嵩

張奐と共に名将として讃えられた皇甫規の甥にして、自身も武廟六十四将に祀られる名将。
武廟六十四将には三国志では張遼、関羽、張飛、周瑜などが祀られているといえば、その凄さが分かるだろう。
その群を抜いた実力と人望ゆえに、腐敗した漢王朝に不満を持つ部下から「あなたほどの名将が凡君に仕えていてはいつか身を守れなくなる」などと言われ、暗に帝位簒奪を勧められたことも(皇甫嵩はあくまで漢への忠義を貫いて却下した)。

董卓とは徹底的に相性が悪かったようで、涼州で反乱を起こした王国の討伐では董卓の献策を却下したり、朝廷が董卓を并州牧に任命するにあたり持っていた軍権を皇甫嵩に譲るように出した命令を董卓に拒否されたりしている。
こういったことが重なって董卓に逆恨みされ危うく処刑されかけたが、息子である堅樹の嘆願によりなんとか免れている。
とはいえ相性の悪さが解消したわけでもなく、長安に遷都し太師に就いた董卓が部下に拝礼させたところ皇甫嵩のみ頭を下げなかった。
そのため「義真、まだか」と催促されると「これは失礼した」とようやく拝礼したという。
董卓死後も後漢の復権に尽力するが、李傕が実権を握った頃に病死している。

軍を率いる指揮官として類まれな才を発揮した傑物であることは間違いない。
しかし、霊帝死後の混乱期に表立った動きを見せなかったために評価が分かれている人物でもある。
特に、横暴を極めた董卓に対し反董卓連合といった外部の圧力、朝廷内からの反発のどちらとも距離を置いていたため、臣民でありながら朝敵を排そうとしなかったと批判を受ける見方もある。
彼本人は、あくまで一介の武人として、政争に関わりたくなかったのかもしれない。
基本的に三国志というよりも後漢の武将であるせいか、演義などの三国志時代をクローズアップした時代作品では、曹操、孫堅、劉備に活躍を奪われたり、ひどい物では明確に無能な将軍として描かれたりと不遇な扱いであることが多い。

三国志大戦では「他」の士気5号令持ちとして宿敵黄巾党や南蛮勢と一緒に行動していた時期も。
「他」「涼」「袁」の一部武将たちの吸収合流によって「漢」というカテゴリーができてからは、「漢」に移籍しバースト号令やバースト特攻戦法で漢軍筆頭になっている。

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