遼東の群雄。公孫度の子、公孫淵の父。
記録によれば、公孫氏は彼の代には現在で言う朝鮮半島や日本にまで影響力を及ぼしていたとされる。
演義では落ち延びてきた袁煕・袁尚を討ち、その首を曹操に献じる場面のみ登場するが、
史実でもここの経緯はほぼ同様で、この功により曹操から襄平侯・左将軍の位を与えられている。
その後、曹丕から大司馬を追贈されたとあり、曹丕の治世までには死去していた模様。
正史・演義ともにほとんどチョイ役のような扱いではあるが、
河北に絶大な影響を誇った袁家や烏桓を見捨て曹操との敵対を避けた決断は、
彼の立場やその後を考えると英断と呼んで良く、半独立を保ちながら中原の情勢にも決して疎くはなかった実力が見て取れる。
が、残念ながら公孫康のそういった政治的能力は公孫淵には受け継がれず、遼東公孫氏は滅亡へと向かってしまう。