人物紹介 / 何晏


何晏

肉屋から大将軍に成り上がった男・何進の孫。

母・尹氏が曹操の側室になったため、曹操の養子として育つ。
幼い頃から才気煥発で曹操からは一族同然に可愛がられ、曹操の実の娘の一人である金郷公主を妻にもらうほど厚遇された。
しかし曹丕・曹叡からは「口ばかりで中身がない」「物静かだが強欲」と評されて嫌われており、政治家としての適性は無いと判断されていた。
そのため曹叡の治世までは全く出世できず、主に学問・思想の世界で名を馳せていた。

しかし曹叡没後、曹爽が曹芳の後見人となると、曹爽と仲の良かった何晏は一気に政治の表舞台へと躍り出る。
手始めに曹爽と同じく曹芳の後見を務める司馬懿を、曹爽の威を借りて政治的権限の薄い太傅という職に置くと、文書を曹爽一派がチェックする体制にして実質的な閑職へと追い込んだ。
また曹爽と共謀して知人・友人を次々と中央政権に取り立て、さらに田畑村落を収奪するなど、ダメな王様と大臣のように自分勝手の限りを尽くす。
しかしながら曹爽一派も一枚岩ではなく、何晏は学友の王弼を推挙したが反対派に妨害され失敗するなど、内部での小競り合いや対立は絶えなかったとされる。
また曹爽は地位こそ人臣を極めていたものの実績に乏しかったため、大功を挙げて影響力を盤石にしようと蜀伐を敢行したが、
曹真や司馬懿ほどの軍才があるわけでもなく、しかも王平ら蜀軍に準備不十分を見抜かれていたこともあり大敗を喫してしまう。
内的にも外的にもこの時期の魏は乱れていたが、司馬懿は歳で耄碌したふりをしじっとチャンスを伺っていた。
司馬懿のクーデターで曹爽一派が失脚し捕縛されると、司馬懿は何晏を裁判官に任命。何晏は命惜しさと司馬懿に取り入ろうとして曹爽一派を激しく告発・弾劾した。
しかしあの司馬懿が曹丕や曹叡からの何晏の評価と、仲間を売るこの行動から自分に媚びて自分の身分を保障してもらおうという真意に気づかぬわけがなく、
司馬懿は曹爽らの名を罪人として一通り書かせたのち、最後に「お前の名が足りぬ」と言い放ち、何晏は曹爽らもろとも刑場に散る事となった。

このような経緯もあって政治家としての評価は低い一方、曹操が見込んでいた才気自体は本物だったようで、老荘思想の学者としては評価が高い。
『論語』の現存する最古の注釈書『論語集解』や『老子道徳論』とは何晏主導で編纂された他、
竹林の七賢に先駆けて清談の気風、つまり儒教と道教を統合し両者の政治的要素を排した中国式哲学を開いた「正始の音」の創始者として王弼と共に知られている。
一節には詩仙と評された李白も正始の音の影響下にあったとされ、学者としての影響力は少なくない。
李白は生涯貧しかった杜甫のパトロンを一時務めているが、杜甫は実は三国志の杜預の末裔である。
知力と政治が別れているSLG系の三国志ゲーで、「知力が高いのに政治が低い武将がいるのはなぜ」という疑問への好例と言える。

ナルシストとしても知られており、おしろいで化粧をしては手鏡を見て自分の姿にみとれていたという。
また「五石散」という、鉱物をすりつぶして作った一種のドラッグの愛用者であり、
当時の中国で五石散ブームを起こし(てしまっ)た第一人者であった。
五石散の愛用者が温まった体を冷ますためにしょっちゅう歩き回って汗をかいていたのが「散歩」という言葉の語源になったと言われる。
要するにヒッピー仲間からセンセイと慕われるようなヒッピーである。そんなのを政治の世界にぶち込んだらどうなるかはご覧の通り。
そのためか三国志漫画の「蒼天航路」ではまさに「切れ者だが享楽的」なヒッピー然とした人物として描かれている。

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