歩隲の同族で孫権の側室の一人。大虎・小虎こと孫魯班・魯育の生母でもある。
『建康実録』という史料によると、名は「練師」であったとされる。
元々は美貌を見初められて孫権の側室になった。妃であった徐夫人が廃された後はこの歩夫人が最も寵愛されたという。
嫉妬を知らぬ性格でしばしば他の女性たちを推薦したことから長く大切にされた。
孫権は帝位につくと彼女を皇后に立てようと考えたが、臣下たちは太子・孫登の母である徐夫人を推したため決断できずにいた。
結局皇后はしばらくの間空位となるのだが、宮中の者や親族たちは歩夫人を「中宮(皇后の敬称)」と呼んでいたという。
死去してようやく皇后となれたものの、長い期間にわたる皇后問題は後の混乱の一端を担ったとも言われる。