建安七子の一人に数えられた魏の文人。
曾祖父の王龔・祖父の王暢は共に後漢の三公にまで上っており、かなりの名門の出身である。
父は何進に仕えていたが、何進の出自が下賤である事を理由に縁組を断ったため免官された。
蔡邕からは目をかけられたが風貌は良くなかったらしく、
後に李傕らによって長安が荒廃すると荊州へと避難し劉表に仕えたが、冴えぬ風采のため重用されなかったという。
劉表が亡くなると劉琮を説得して共に曹操に降伏、以後は魏の文人・政治家として活躍することになる。
ロバの鳴き声が好きだったことが知られており、死後に曹丕は弔問客に提案して一人ずつロバの鳴き真似をして彼を送ったという。