1949 / 07 / 06 下山事件


1950以前

【1949/07/06 下山事件】

1949(昭和24)年7月6日初代国鉄総裁下山定則(さだのり)氏(47歳)が
常磐線綾瀬駅(東京・足立区)付近で轢死体となって発見された怪事件。
総裁は5日朝、三越本店(東京・日本橋)にはいったまま行方不明になっていた。
5日は国鉄当局がGHQ(連合国最高司令官総司令部)の命令で人員整理
(9万5000人の首きり)案をだす予定であったことから、政府は「他殺と推定される」
といい、暗にストライキとをかまえている労組や労組に強い影響力を持っていた
共産党を牽制するとともに、これらの組織が関与しているよう匂わせる。

殖田俊吉法務総裁は、この事件に関して
「共産党がこの種の暴力事件を行うとは信じない。しかし万一このようなことが
あれば、国民はこれに対抗するであろう」との談話を発表。

死体を検分した(執刀は桑島講師)古畑種基東大教授は、
「死後礫断」説「死体に生活反応が見られず、死後轢断である。但し、
睾丸、局所、手にごくわずかな生前の出血を」みる=他殺説)をとり、
これに対し、中館久平慶大教授らは「生体礫断」(自殺説)を主張
(中館教授は死体を見ていないし、その意見も医学雑誌に発表したもので、
「睾丸と局所の出血は生前なくても飛び込み轢断の死体によく見られる」
というのが主な論点)、法医学論争がマスコミをにぎわせる。
警視庁下山総裁事件特別捜査本部(異例の刑事140人を投入、捜査1課だけでなく、
捜査2課も参加、さらに東京地検も4名の検事が担当)は、断定を避けながらも
自殺説をとり、同年12月31日、捜査本部(捜査1課は自殺説、捜査2課と地検は
他殺説であったといわれている)は解散、64(昭和39)年7月には自殺が他殺が
不明のままに時効が完成した。

下山総裁は、7月5日午前8時20分ごろ、上池上の自宅を国鉄の総裁用乗用車黒塗
ビュイッグ41年型で出勤した。いつもの通り大西運転手が運転したが、大西供述によると、
行動は、銀座・白木屋前電車通り⇒三越本店前電車通リ⇒神田駅西口通路前⇒
丸の内・千代田銀行本店(現・東京三菱銀行)下車、20分間行内へ⇒日本橋・
三越本店南口到着(午前9時37分)となっている。
下山総裁は大西運転手にはじめ、「買物がしたいから三越にいってくれ」といったのだが、
途中で「白木屋でもよいから真直ぐに行ってくれ」といい、白木屋も三越本店も
9時半の開店で時間が早くまだ閉っていたので、上の行動となり、最後に開店間もない
三越に入ったまま姿を消したのである。
なお、千代田銀行に入ったのは、総裁の貸金庫があり、それに用事があったからだが、
銀行員は立会っていないので、総裁が金庫から何を出したのか、あるいは何をいれた
のかは不明である。

自殺説は、失踪前に総裁が神経衰弱ぎみであったこと、姿を消してからのち、
下山らしい人物を目撃したという数人の目撃者の供述を根拠にしている。
下山に似た1人の男がその日、現場付近をうろついていたことは、根拠のないことでは
なかった(実に17人の目撃証言がある。しかし物証はなにひとつない)が、
それが本人であったか、ダミーであったかについて論争がある。

末広旅館の主婦の証言(現場付近目撃のカナメ)
「5日午後2時ごろ上品な男が玄関にきて『6時ごろまで休ませてくれ』というので
主人にきいて2階4畳半に案内して窓を開けると、窓に腰かけて『涼しいですね。
水を一杯下さい』と言い、この時靴下を見ながら下に隆りて茶をもって上り宿帖に
記入を申出ると『それは勘弁してくれ』と言うので、そのまま一番良い布団を持って
上って下に降りた。それで5時20分ごろに手が鳴るので私が行くと支度をして階下8畳の
間に来て立っていて、黒革財布から200円とチップ100円を出して(何も古い100円札)
渡し、玄関で靴の紐を結ぶようにかがんでから午後5時30分ごろ立去った。
その男の人相着衣は丈5尺7寸位、色白面長ふくらみのある顔で眉毛の間が普通の人
より空いていてロイド眼鏡をがけ髪を7、3に分けており上品な優しい顔でした。
それで無帽で鼠色背広、白ワィシャッ、ネクタイをしてチョコレート色ヒダの在る
進駐軍様の靴、紺木綿の靴下、黒革財布、眼鏡、荷物はなくて単独で、酷似するので
7日に西新井署に届出る」

他殺説をとる作家松本清張は『日本の黒い霧』で、「日本の『行き過ぎの進歩勢力』を
後退させるための米占領軍による謀殺を主張している。
また、事件を長年にわたって調査した『朝日新聞」記者矢田喜美雄(当時)は、
死体を運んだ時に線路上に点々と落ちたと推定される血液の跡をルミノール反応に
よって確認したが、当然それは死後礫断と鑑定した東大の解割結果とも合致するもの
であった。そして矢田は、70(昭和45)年になって、謝礼金をもらい死体を車のトラ
ンクから3人でレール上を運んだという男をつきとめた。
矢田はその著書(『謀殺下山事件』)で、CIC(米・敵諜報部隊)が日本人を使って
工作した謀略である」と断定している。

下山総裁が行方不明になった5日、東芝は社員の20%にあたる4581人の首きりを発表した。
当時の社長石坂泰三氏は、下山事件の10年後に「整理断行をさらに勇気づけてくれた
のが、ほかならぬ下山事件だった。あの事件に接して、これは組合にとって大きな
マイナスだ、これならうちの整理も断行できると感じて多いに勇気を起こした。
東芝再建は下山氏の死に追う所が大きい。ぼくは今でも同氏の犠牲は混乱したいろいろ
の争議に役だったと思っている。同氏の死は犬死ではないと思った」と語っている。
(1959年10月11日付『朝日新聞』)

たむたむのページ
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/index.html
下山事件wiki
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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