人物紹介 / 陶謙


陶謙

後漢末期の徐州刺史。
曹魏…というか「徐州虐殺」にまつわる出来事のため、正史と演義で評価がまっぷたつに分かれるという、
ある意味で中国の史書がどういうスタンスで編纂されていたのかがよく分かる武将になっている。

まず、徐州虐殺が起きる直前は、反董卓連合が終了し曹操と袁紹の対立による官渡の戦いの下準備が行われていた時期である。
特に徐州周辺の青州・エン州・揚州は賊化した黄巾残党が夥しくひしめき、エン州に至っては100万賊軍が官軍である劉岱を攻め滅ぼすといった無政府状態だった。
一方青州でも大量の黄巾残党が群盗になっており、曹操がエン州牧となり彼らを「青州兵」として取り立てるまでは非常に不安定だった。
揚州にも張燕率いる黒山賊が大きな勢力を持っており、下述のように孫呉はまだ成立していなかったため、徐州周辺はとても安全な一帯とはいえなかった。
またこの頃に孫堅が討ち取られ孫呉は一度瓦解し、孫策は(不本意ながら)袁術配下となって活動していた。
つまるところ、「黄巾の乱」「反董卓連合」という事象が終わり、後漢王朝が零落して本格的に三国の時代に突入しようとしていた最中の徐州刺史が陶謙である。
なお陶謙自身は「太学」つまり大学を出ており、県令を経て幽州刺史や徐州刺史を歴任するなど、地方役人のエリートコースを進んでおり決して蒙昧な人間ではない。

正史の彼は乱世の群雄に相応しい狡猾な野心家であり、当時まだ中国では少数派宗教だった仏教を大々的に奉じる笮融を登用したり、
下邳で闕宣という者が勢力を興すと結託して略奪を行い、後に対立すると闕宣を殺害して勢力と軍を乗っ取ってしまっている。
政治・謀略面でも王朗を会稽太守に推挙して影響を及ぼしたり、
長安の実権を握る李傕・郭汜に間道を使って貢物を送るなどなかなかに抜け目がない。
こういった点から陳寿には
「あるべき規範を守らず、感情に任せて行動したので、司法と行政の連携が取れず、
多くの善良な人々が害を被り、これらによって生じた乱れは時を追うごとに大きくなった」
と酷評されており、演義で描かれる彼の人物像と非常に大きな差異が生じている。

後に袁紹・曹操が公孫瓚・袁術と対立するようになると、陶謙は袁術側について曹操と対立するようになる。
虐殺の原因となる曹操の父・曹嵩の殺害事件はこの対立の最中に起きており、正史では "曹嵩は戦禍を避けて琅邪に逃れていた。そこを(曹操と対立した)陶謙が襲って殺害した。" と、陶謙が直接手を下したように描かれている。この琅邪、まさに上述青州・兗州と非常に近いところにあり、
あまり逃げるには好ましくない場所のようにも見えるが、ともあれ元からの対立に加えて親族殺害までされ、
曹操は怒り心頭で徐州北方を攻撃し、虐殺と言われるまで散々に蹂躙してしまう。
正史に記述される限りではこのような人物なので陶謙黒幕説が出るのも仕方がないように思える。
苛烈を極める曹操の攻撃に対し、陶謙は当時公孫瓚配下として援軍に来ていた劉備を引き留め、
豫州刺史に推挙し小沛に駐屯させて備えとしている。
なおこの点をして、魏と儒に依った記述を行った陳寿には
「(父を襲ったので)凡人でもここまで酷い事にはならなかっただろう。論じるに値しない。」 と陶謙を手厳しく酷評している。

一方呉の史書である呉書では、比較的好意的に描かれている。*1
曹嵩の一件に際しても「部下が曹操の父を殺害したため哀れにも恨みを買った」と同情的。
しかし戦乱に身を置く官僚として抜け目はなく、袁術が孫堅を徐州太守に任じようとしていた*2ため、その遺児であり上述の解体後バリバリの袁術陣営と見なされていた孫策を迫害したと言われるほか、
「呉志」には名士である張昭らを仕官させようとしたが拒否されたので一時幽閉した、という逸話も記される。
(ただし後に張昭は陶謙を褒め称え、死去時には弔辞まで贈ったという。)

また頼ってきた劉備に兵を預け、後に糜竺らに託した遺命により徐州を太守位や官僚ごと譲ったということから演義での評価も高い。
彼には陶商・陶応という二人の息子がいたが、共に一州を任せられる器ではなく、
それが劉備に徐州を譲ろうとした最大の理由であると言われる。


*1 三国志のうち呉について言及しているサイト曰く、「黄巾の乱」「反董卓連合」で戦続きの北方に嫌気が差した文官(諸葛瑾など)が、上述のようにエリート官僚だった陶謙を頼って徐州に逃れ、後に曹魏の大虐殺でさらに南方の呉まで逃げ延びたから、つまり徐州虐殺の目撃者だったからだと言われている。
*2 袁術は誰かを太守に任じるような位階を持たなかった、つまり「政府を無視して勝手に太守にしようとした」ため、この点に関してはそもそも袁術のほうがおかしいのである。