司馬昭と王元姫の間に生まれた三男。次兄は早世してしまったのか記録になく、実質的には次男・次子として扱われる。
男児が生まれなかった伯父・司馬師の養子となっている。
司馬師が死んだ当時、まだ幼かったことから司馬家の家督は司馬昭が継いだのだが、
司馬昭は晋王に封じられた際、兄(司馬師)が本家であるという考えから司馬攸を後継者に立てようとしている。
(もっとも重臣らの反対に遭ったため、兄・司馬炎が後継者となっている)
晋の成立後は斉王に封じられるも任地には赴かなかったが、経営はしっかりこなしていたため評判も高く、
さらに中央にいたことから朝廷内でも要職を歴任した。
ただ、兄からは後継者問題で揉めたことなどから内心快く思われていなかったようで、
王元姫もそれを察してか臨終の際「兄弟仲良くするように」と遺言していたのだが、
太子・司馬衷が暗愚なこともあり司馬攸を次の皇帝にという声が高まると、都督に任命され斉国への帰藩を命じられる。
これが実質的な左遷で、司馬炎や側近の差金と察すると怒りのあまり病を発し程なく36歳の若さで死んでしまっている。
この「斉王攸帰藩事件」も、八王の乱が起きた原因の一つともされている。