午後2時過ぎ制服、制帽姿で自宅を出る。
午後6時半頃、仁君の制帽を手にした見知らぬ男(当時24)が自宅に現れ
家族に、「制帽の持ち主に、現金を奪われた」という話をする。
翌日昼頃、父親宛に何者かに無理やり書かされたと思われる仁君の自筆の手紙が届く。
内容は強盗事件を詫びる文章で、これを最後に連絡が途絶える。
前略
心配かけてすみません。
悪い友達にさそわれて、人のお金をとりました。
中には四十万以上も入っていましたが、僕は少ししかもらっていません。
学校の方は、僕の気持ちがおさまるまで、病欠にしていてください。
すぐに帰っておわびいたします。
どうかさがさないで下さい。仁
それは、昭和44年2月23日、日曜日。佐世保市内で起こった。
その日、午後2時すぎ、仁君は「ちょっと町へ行く」と、自宅から出た。
縁側にやりかけの工作の道具を広げたまま。制服、制帽姿だった。
庄山家とは見ず知らずのクリーニング店員Aさん(当時24)が、仁君の
制帽をつかんで現れたのは、同夜6時半ごろ。仁君の母親に驚くべきことを言った。
「午後3時半ごろ、場所は市内の道路。側溝に車輪を落としたバイクを、
2人の少年がひきあげようとしていた。
手伝おうと、ジャンパーを脱ぎ、道路わきに置いた。
少年の1人が、いきなりジャンパーを奪って逃げ、中学生も続いた。
ジャンパーの内ポケットには、46万が入っている。
遅れた中学生を追いかけ、ズボンのポケットにはさみこんだ制帽を取ったが、
2人とも取り逃がした。
制帽の名前をたよりにここへ訪ねてきた。」
男が持ってきた制帽は、仁君のものだった。
翌日の手紙も、何かが起こったことを裏付けた。
にもかかわらず、このひったくり事件は存在しなかった、と信じる捜査員はいまも少なくない。
理由は
事件のカギを握るAさんを、奈良県に訪ねた。
事件後間もなく、佐世保を去り、各地を転々として、奈良県内に身を寄せていた。
いまはダンプの運転手、2児の父である。
夜。「明日は早い」といったん取材をことわったが、起きてきた。
小柄、がっしりとした体つき。
慎重に考えながら、強い関西弁で早口に話す。が、かんじんな点は言わない。
「金の出所か。とくに言えん金、というわけじゃない。言うと不利になる、
ということは、ちょっとはあるがな。いつかは言わんならん、思うけどな。」
ではいま、言ってくれないか。
「わしは情にもろいからな。そういわれると、言いたくなるんや。けど、警察のメンツがたたんものな」
ジャンパーの大金に少年たちが気づいたのも、不自然だが…
「そやな。外から見えんしな。そう言われれば不思議やな。」
「逃げた」仁君の身長を聞いた。キッと詰まって、
「わしと同じか、ちょっと大きいくらい。」
仁君は年の割に大きい168センチあった。
小柄な彼とほとんど同じ、ということはない。
話のあいまいさは最後まで残った。
捜査はいま、振り出しに戻った。
Aさんが庄山家を訪れるさい、道を聞いた近くの商店で、その30分ほど前、
別の3人組が庄山家を訪ねた事もはっきりしてきた。
これは誰か。Aさんとの関係は・・・
庄山家は1年後、佐賀県藤津郡に引っ越した。少年は、この新居を知らない。
1961〜1970