蜀に仕えた政治家。
諸葛亮存命中から配下の文官として働き、「思慮深く過不足ない」と評された。
諸葛亮・蒋琬・董允・費褘が没する頃には蜀の重臣のひとりになっており、
蜀漢末期には諸葛瞻・樊建と共に政治の中枢にあったとされる。
しかし彼らが国政を動かす立場になる頃、すでに事実上の政権は黄皓が握っており、
董厥・諸葛瞻・樊建は互いを庇い合うばかりで、政治の腐敗に対抗することはできなかったという。
樊建は黄皓と距離を置いていたが、董厥・諸葛瞻は(保身のためとは言え)黄皓と親しくするようになり、
北伐を続ける姜維を黄皓が更迭しようとした時も積極的に同調していたとされる。
実績だけを見れば「黄皓を止めなかった無能な政治家」とされてしまいそうなところだが、
演義では蜀滅亡を儚んで憂死したということになっており、そこまで酷い扱いは受けていない。
正史では劉禅降伏後も益州の統治に協力したとされているが、
蜀旧臣の多くが侯として列される中に董厥の名は無く、もしかしたら実際に蜀滅亡後ひっそりと亡くなっていたのかもしれない。