人物紹介 / 羊徽瑜


羊徽瑜

羊祜の同母姉にして、司馬師の3番めの正室。諡は献。夫の諡号と合わせて景献皇后ともよばれる。
父は羊衜(ヨウドウ)、母は蔡邕の娘だとされる。

司馬師の1番めの正室は夏侯尚の娘・夏侯徽。
二人は当初親しかったが、司馬師が曹家と敵対するようになったことで不仲になり、最終的に夏侯徽は毒殺された。
2番めの正室は鎮北将軍・呉質の娘だったがこちらは離縁し、その後添えとして羊徽瑜が迎えられた。

晋書后妃伝には羊徽瑜の人柄が「聡明で徳の高いおこないをした」というふうに簡潔に記される。
それを裏付ける逸話が書いてないため、定型文的にほめられた虚飾に聞こえかねないが、
具体的にどう賢かったかうかがえる根拠は別の記録物にある。
『世説新語』賢媛編に逸話が記載される趙姫(TCGに既登場)を羊徽瑜が称賛したという注釈があったり、
唐代の教育本にあたる敦煌写本類書の《励忠節鈔》にて羊皇后or献皇后の名目で、教訓を述べた記録がかろうじて残ったりしている。

正史の記述では、晋が成立した際に司馬家につらなる縁者に諡号が贈られた。この時に羊徽瑜は弘訓太后と号された。
しかし司馬師の妻で彼の娘を5人生んだ夏侯徽には皇后位が与えられないでいた。
そのため羊徽瑜は司馬炎を説得しつづけ、司馬炎即位の翌年に夏侯徽を懐皇后に追号させた。
羊徽瑜が夏侯徽の追号にこだわった動機は記録されておらず、その行為による周囲の反応も不確かである。
羊徽瑜は前妻の処遇を哀れに思ったのか、
悪事を隠匿しようとする司馬家の姿勢を見かねたのか、(夏侯徽殺害の件は夏侯徽を皇后にしなければ后妃伝に記す必要もなかった)
羊祜の正室が夏侯覇の娘であり、その同族にあたる夏侯徽の復権をするのが縁者の責務だと考えたのだろうか。
いずれにせよ史書の称賛が偽りではなく、道徳心のある人物だったようだ。

ちなみに羊家にはほかにも夏侯家の親戚がいる。
夏侯荘に嫁いだ羊氏が晋の景陽皇后(陽は羊に通じる)の姉だと裴松之注釈『世語』に記録される。
ただし、この羊氏の息子の夏侯湛が辛憲英(羊耽の妻)の孫にあたるため、羊氏の実父は羊耽。
羊耽の兄の娘である羊徽瑜とは父親がちがうため、正確には従姉だといわれる。
当時は親戚を実際の親等よりも近く表現することがたびたびあったので、まぎらわしい書き方である。