人物紹介 / 曹操


曹操

許子将からは「治世の英傑、乱世の奸雄」と評された英傑で、魏王朝の実質的な創始者。
存命中に帝位には就いていないが、曹丕即位後に「武帝」と諡される。
後世の史書などではしばしば「魏の武帝」を「魏武」と略し敬称・称号的に使用しており、
つまり本作でも計略名などに多用される「魏武」という単語は曹操当人のことに他ならない。

存命中は中国全土の歴史を大きく動かした人物であり、
日本における三国志小説の第一人者である吉川英治は作中でハッキリと「前半の主人公」と書いている。
(ちなみに後半は諸葛亮)
儒教の教えの観点(※1)、そして北方の異民族も自分の配下に加えていた事から、後世の中国においては
その時代の王朝を脅かす異民族と同一視されていた。
講釈師が三国時代の物語を聞かせると、子供たちは劉備が負けると涙を流して悲しみ、曹操が負けると喜んだという。
(※1……後述の通り、曹操の祖父は宦官であり、実父がその養子となった経歴から。後に袁紹配下・陳琳が曹操打倒を訴える
檄文を書いた際、この曹操の出自を槍玉に挙げている。)

そんな背景から悪役として描かれることの多かった曹操は、伝統的に中国では嫌われている人物だった。
また、荀子や孔子の子孫を冷遇し、死に追いやったことから、清朝までは嫌われものとなっていた感もある。
中華人民共和国が成立すると、イデオロギーの点から孔子・儒教の否定が進められたため、
反儒教の立場を取り、進取の気風に富んだその姿勢は(政治上の思惑を交えつつも)中国で再評価されることとなった。

その才能は軍事、政治のみならず、詩人としても一流で息子である曹丕、曹植と並んで「三曹」と称された。
『孫子』の注釈をまとめた兵法家であり、曹操が編集した『魏武注孫子』こそ、我々が目にする孫子のテキストの大本となっている。

出自は夏侯惇達と同じく夏侯一族で、曹操の父は夏侯惇の叔父と言われている。
曹操の父が、漢の二代目相国である曹参の血筋を引く宦官の養子になったため、彼が曹姓になった。
血のつながりはないのだが、漢の三傑に並ぶ評価を受ける曹参の家からの出で、義理の祖父も当時権勢を誇っており
元の夏侯氏も漢の高祖(劉邦)の挙兵時からの功臣・夏侯嬰の末裔とされる。
袁紹が名族とよく言われるが、それには及ばないものの彼の血筋もなかなかのサラブレッドである。

官職につく前はかなりヤンチャな武勇伝が多く残っており、日本では織田信長に対比されることも多い。
実は史書には小男で容姿が悪かったという伝承が残っており、宦官の倅であることと合わせて馬鹿にされることが多く、
曹操は自分の容姿に強いコンプレックスがあったと言われている。
異民族の使者が曹操の下を訪れた際、曹操は自分の影武者として堂々たる体躯の男を玉座に座らせ、
自分は配下の中に紛れて様子を見ていた。
使者は「曹操様は確かに堂々たる偉丈夫だ。しかしその傍らにいた配下(=本物の曹操)の方が余程ただ者ではない」と、
曹操の使いの者に話した。
それを聞いた曹操は「ただ者ではない」と思い、哀れその使者は刺客を差し向けられ殺害された…という逸話もあるほど。

俗に、以下の3つが曹操の三大疾病として知られている。
一つ目は頭痛。偏頭痛持ちだったとされており、3つのうち唯一本当の病気である。
演義では華佗が脳外科手術を提案したものの、理解を超えていたこともあり投獄・処刑してしまったというエピソードも書かれる。

二つ目は人材。かつての敵将であった張遼、賈詡、張郃、龐徳と言った武将も重く用いていた他、
史実でも唯才是挙という一文で知られる求賢令も有名。
かつてコーエーが出版していた歴史読本「爆笑三国志」では「人材コレクター」とも評されていた。

三つ目は女好き。第一弾でカード化された丁夫人、卞氏の他にも数多くの側室を持ち、男児だけでも20人以上の子がいたとか。
鄒氏の一件のように、それゆえに致命的な失態を犯したこともあるのだが。

軍才・文才ともに当時屈指、中国史上にその名を轟かせる稀代の覇王でありながら、このような人間味をも内包した複雑な人物像は、
「蒼天航路」において明確に主人公とされるなど、各種創作においても魅力的かつ個性的に描かれることが多い。
題材としての「三国志」がメジャーになるにつれて、恐らくは最もその魅力が発掘・再発見された人物であろう。

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