いわゆる「鶏肋」の逸話で知られる魏の文官。
高祖父・楊震から父・楊彪までが三公の一つ太尉を務めている「四世太尉」の名門で、その名声は袁家にも匹敵する。
しかも母親は袁術の叔母に当たり、四世三公の家同士が繋がった間柄に生まれているという後漢末期のサラブレッドである。
漢中の戦いが膠着した際に曹操がこぼした「鶏肋」という言葉を撤退せよという意味に解釈すると、
独断で撤退の準備を始め、直後実際に撤退することになったが、この一件で曹操の怒りを買って処刑されたとされる。
ただし処刑された本当の理由には諸説あり、曹植に余計な入れ知恵をしていたことが気に入らなかったとも、
前述のように母親が袁術の叔母であったためそちらの縁を断つつもりだったとも言われている。
あまりにも血筋が良すぎたのかもしれない。
また、禰衡が好意的に見ている数少ない人物の一人で「孔融と楊修しかまともな人材がいない」と評している。
彼にはこんな逸話もある。
曹操がある時、「酥」*1という食べ物を入手して、「一合の酥」とその入れ物に書いていた。
しかし楊修たちは曹操の留守中に「酥」を食べ尽くしてしまった。激怒した曹操が楊修を詰問すると彼はこう返した。
「曹操様、「一人一口の酥」と入れ物に書かれたではないですか」
頓智じみたこの答えには曹操も二の句が継げず、表面上は笑いながらも楊修をいつか処刑してやると思ったそうである。
上記のように処刑には諸説あるが、北方版三国志では単なる愚者として描かれており、勝手に撤退準備を進めた彼を
曹操は「曹植はこんな奴を味方に付けて(司馬懿を味方につけた)曹丕と後継者争いをする気だったのか」と
呆れ果てて処刑している。