蜀・晋に仕えた、正史『三国志』を書き上げた歴史家。
中国の正史とは、「現在の王朝が公認した、前王朝についての公式の歴史書」という意味である。
晋の時代に魏王朝の歴史書を書く人はいたが、陳寿の作品の完成度を見て筆を折った人も多かったとか。
元は蜀の学者・譙周を師と仰ぎ蜀に文官として仕えていたが、
父の喪中に病気にかかり、女中に薬を作らせていたのがバレて非難されてしまう。
(儒教の概念として、親の服喪中に我が身を労るのは不孝とされていたため)
そのため蜀の滅亡後しばらく仕官が出来ず、再仕官は晋が成立した後、羅憲の推挙を受けるまで待つこととなった。
晋では『三国志』以外にも数々の歴史書を執筆し、史家としての名声を不動のものにするが、
亡くなった母を遺言に従ってその地に埋葬したところ、「郷里で弔うべき」との当時の慣習に反してしまい
再び不孝者の烙印を押され、不遇の最晩年を過ごした。
『三国志』は晋王朝の時代に書かれたため、晋に禅譲した魏王朝を後漢王朝後の正統として編纂されており、
皇帝の伝である本紀も魏のみに記されている。
しかし、陳寿自身が蜀に仕えていたこともあって劉備、劉禅の伝を本名ではなく「先主伝」「後主伝」としたり、
蜀書の末尾に楊戯の著作「季漢輔臣賛」(意訳すれば、「蜀漢を支えた家臣を讃える文」)を全文載せたりするなど
本人ができる限りで蜀を称賛した形跡がうかがえる。
ちなみに呉は接点が少ないためか、割とそっけない記述になっているという。
才能は申し分ない人物ながらも、性格・人格面では当時の価値観に合わない部分が多々あったようで、
『晋書』には、ある人物の子孫に「お前の祖先を良く書いてやるから」と持ちかけ報酬を要求するも、
断られたためその部分の記述を取りやめた、などその公正さを疑う真偽不明の逸話が残されている。
他にも晋王朝にとって都合が悪い話などは敢えてぼかした表現にするなど、(察しろ)と言わんばかりの記述もあり
彼の置かれた立場や経歴を考慮しながら読まないとミスリードされる部分もある。
師であった譙周から
「卿は必ずや学問の才能をもって名を上げることであろう。
きっと挫折の憂き目に遭うだろうが、それも不幸ではない。深く慎むがよい」
と戒められていたという。
かつては蜀将・陳式が父ではないかと言われていたが、明確な根拠が存在しないため現在の定説では否定されている。