読書備忘録


どくしょのきろく

とりあえずつけてみようと思い立った。

『鬼婆』和田はつ子

 速読20分。僕の偏見含みでいうと、漫画でも小説でも、女流作家の作品には必ず自己の願望というか、そういうのが現れるから面白い(例外はクリスティくらいか)。まあ、女流作家の作品はそういう目でしか見られない僕なわけだが。

 58才の女で「圧倒されるような若さ」だの、「均整のとれたみごとなプロポーション」だののくだりで、もう辟易である。「これじゃ20代といっても通用する!」しないしない。ありえない(笑)。まあ、この京子の不思議な若さ、ってのが物語の核でもあるわけだが、絶対にありえない話を前提にされてもちっとも面白くない。もうすこしなんとかなんないんすか。SFだって、「ありえない話」をどうにかして「あ、これならありうるかも」と読者に思わせる工夫をしている。和田センセイにはそれがまったくない。(2005.Sep)

『さおだけやはなぜ潰れないのか』山田真哉

 もともとは会計野郎だった僕にとってはとても面白かった。この本で紹介されている「キャッシュフロー」の概念は現代ではとても重要で、知っておくと色々便利。家計の善し悪しの判断だけでなく、企業判断にも役に立つ。

 ところで、下記のホリエモンの本を読了後にこの本を読んだのだが、なにか共通するモノを嗅ぎ取ってしまった。それはなんなんだろう?とくに強くそう思ったのは「人脈は回転率で考える」の項目。「100人との薄っぺらな関係を築くよりも、100人の人脈をもつ1人の人物と深くしっかりとした関係を結ぶべき」なんだそうです。まあ、こいつらエリート連中の「人脈」ってよく意味が分からんが、ビジネス上での関係、ってことなんだろう。

 あと、P123「根拠がたいして無くても、とにかく数字を使って話をすれば主張を受け入れてもらいやすくなる」んだそうです。根拠薄弱なことをゆがんだ確率統計であたかも確固たる根拠があるようにして大衆を誘導するのは主にマスコミが行う方法である。素人確率統計でも書いたが、ダレルハフがこうした主張の方法を戒め、かつそういう主張をする人物なりマスコミなりを警戒するようにと主張しているのに対し、この山田氏はこの方法を推奨しており、非常に興味深い。両者は全く正反対の哲学に生きていることがよく分かる。

 僕はダレルハフ信者だから、山田氏の言いたいこともよく分かるのだがね。でもそれって倫理的にどうなのさ。「会議やプレゼンテーションにお勧め」みたいなことを書いているけれど。僕に言わせれば単なる嘘つきでしかないわけだが。(しかも、全くのウソよりもたちがわるいのだ)(2005.Sep)

『稼ぐが勝ち』堀江なんとか

 ホリエモンの本。この人が正直に書いていることはおそらく演技無しの本音なのだろう。とにかく、「自己中心」を徹底的に貫いている。ここまで自分のポリシーである「自己中心」を貫ける人はすごいね。お金持ちになれるのも当然だろう。ただ、堀江のような自己中心なだけの人間ばかりの社会は凄く住みにくいモノだと思うけれど。度を過ぎた自己中心は単なる異端児で社会にとってじゃまになるだけ。

 あと、「一般相対性理論は単純にe=mc^2であらわされる、シンプルなモノです」ってあるのは、特殊相対性理論の間違いだと思う。一般相対性理論は、何次微分方程式だのを駆使しており、さすがにシンプルではなく難解。ほんとにこの人、東大の入試に受かったのかなあ。200ページの単語帳を用法から何から全て丸暗記した、っていうのは凄いけれどね。単に記憶力が優れているのか。(2005.Sep)

『回転する世界の静止点』パトリシアハイスミス

 久々に抜群に面白い。短編集。新聞の書評欄で好評だったから試しに読んでみた。これはよい。


『バッテリー2』あさのあつこ著 角川

 イジメのやり方が女っぽかったのが印象的。誰がやったかわからないように(しかも鞭打ちw)やるのは女、もしくは金持ちのぼんぼんクン。著者の学生時代に同様のことがあったのだろうと邪推。この「バッテリー2」にも何の感銘や感想も受けなかった。

 というか、やっぱり読む速度が落ちている自分に愕然。読了までに総計4時間ほどかかった。

(2005.Feb.13読了)

『バッテリー』あさのあつこ著 角川

 日本経済新聞の書評を見て。書評からして嫌な予感がしていた。何しろ主人公は凄腕のピッチャー。自分に絶対の自信を持つ。周囲との衝突。

 あとがきに「‥自分の表現や言葉を自らが引き受けて生きることも、この国では歓迎されない」「‥この国にあふれているそんな大人の私も一人だ。」

 この国この国言う人にろくな人はいない。この国が嫌なら出て行ってくださいな。日本語を使わないで日本のインフラも使わないで生きてください。それができないのはなぜ?やはり日本という国が居心地がよいからではないのか?そもそも居心地のよさの源泉は、そういう他人との和ではないの?その居心地のよさは享受したいけれども、我は通したいと?そういうことですかいな?それに、権利ばかりを主張して義務を履行しない人がだんだん増えてきたけれど、さて、居心地はよくなってきたと思う??数々の疑問ばかりが浮かぶ作品であった。

 そういう根本的な疑問のほか、細かいところでは小学6年生から中学生の年頃の男で、こんな奴は絶対に存在しないと断言できる。理由はちょうどこのころ精通がある。これは避けられない。精通があるということは、リビドーが存在するということ。以下略。あと、著者は野球をまったくやったことがないか、少なくとも野球の試合をしたことがない。物語の本質が変わるわけではないけれど、若干の違和感を感じる。

 読んでいて、ニーチェを曲解した人たちが感じる選民主義的な心地よさを感じることはできた。あと、この本を読了するのにものすごく時間がかかってしまった。もう僕も年だな。文章量と内容の平易さ(児童文学だからね)からすると、もっとサクサク読めてもよかったのだが。

(2005.Feb.12読了)