1501-1510


1位 ポルトガルがインド洋に覇権を確立

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ヴァスコ・ダ・ガマが開拓したインド航路を生かし、ポルトガルがインド洋に一気に覇権を確立した。「インド洋提督」の称号を得たガマは1502年2月12日に20隻の船団を率いて再びインドへ航海し、アラブ商人に対してカリカットでのポルトガルの貿易権を獲た。さらにポルトガルは初代インド総督フランシスコ・デ・アルメイダ率いる艦隊を中継地の東アフリカに派遣し、ソファラ、キルワ、モンバサ、モザンビークに拠点を築いた。しかし、それまでインド洋の海上覇権を握っていたマムルーク朝エジプト海軍がここでポルトガルに立ちはだかる。アルメイダの艦隊は1508年にエジプトとアフマド・シャーヒー朝グジャラート(インド西部の自立王朝)からなる連合艦隊とチャウル沖で激突し敗北する。両軍は翌1509年、デーブ沖で再び激突。アルメイダの艦隊が復讐を果たし、エジプトとグジャラートの連合艦隊は全滅する。またこの年アルメイダはマラッカに艦隊を送り、東インド洋の支配にも布石を打っている。後任のインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは、いよいよインド西海岸の拠点築城を目指し、1910年、カリカットを攻撃するが失敗。アーディル・シャー朝の支配するゴアに狙いを変えて北上、11月、この都市を占領した。西インド洋の覇権を確立したポルトガルだが、アルブルケは早くも東方に目を向け、マラッカ占領の準備を進めているという。すでにポルトガル船による胡椒の定期輸送が開始されており、これはポルトガルに莫大な富をもたらしている。なお、デーブ沖の海戦に勝利しインド洋の制海権をポルトガルにもたらしたアルメイダは帰路、喜望峰にてコイコイ人との戦いで戦死し、祖国の地を踏むことはできなかった。


2位 イスマーイール1世がサファヴィー朝を創始

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ゼルバイジャンを根拠地とする神秘主義勢力「サファヴィー教団」の少年指導者イスマーイール1世は、1501年、白羊朝を破ってその都タブリーズを占領し、この地を都としてサファヴィー朝を創始した。イスマーイール1世は、紅いターバンを巻くサファヴィー教団の戦士クズルバシュ(紅い頭)を、得意の詩によって鼓舞し、宗教的情熱を駆り立てて、破竹の勢いでイランを征服している。1510年にはウズベク族のシャイバーニー朝も破り、イラン全土を制圧した。


3位 レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナリザ」を製作

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タリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチは1503年、僅かに微笑んだ半身の女性の肖像画の製作に着手した。数年をかけて完成したこの画は、『モナリザ』と題され、ルネサンス芸術の最高峰と一つとなった。


4位 天才彫刻家ミケランジェロの傑作ラッシュ

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変の続くフィレンツェで、若き天才彫刻家ミケランジェロが、イタリア・ルネサンスの頂点を思わせる傑作を次々に生み出している。ロ−マで『サン・ピエトロのピエタ』の製作を終え、1501年にフィレンツェに戻ったミケランジェロは共和政府の依頼で5mを超す巨像の製作を開始した。1504年に完成したこの『ダビデ像』は、市庁舎の正面にに置かれ、共和国の象徴となった。教皇ユリウス2世にローマへ呼び戻されたミケランジェロは、バチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられた。自分は彫刻家であり、画家ではないと拒んだが、しぶしぶ教皇の命令に従い、製作を開始した。礼拝堂内に足場を組み、横になって苦しい作業を続けている。今度のテーマは『創世記』の『天地創造』だという。


5位 ラファエロが『アテナイの学堂』を製作する

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タリアの新たな天才画家ラファエロ・サンティは、ローマ教皇ユリウス2世の命で教皇庁のフレスコ画を描いていたが、1510年、署名の間に傑作『アテナイの学堂』が完成した。この作品には中央のプラトン、アリストテレスを始め、ルネサンスが理想とする古代ギリシア・ヘレニズムの哲学者が数多く描かれているが、イブン=ルシュドとおぼしき人物も見られる。また、哲学者たちは同時代の人物をモデルにしていると見られ、レオナルド・ダ・ヴィンチはプラトン、ミケランジェロはヘラクレイトス、ブラマンテはエウクレイデス、ラファエロの愛人マルゲリータはヒュパティアそしてラファエロ自身はアペレスとして描かれている。


6位 スペインが新大陸でエンコミエンダ制を導入

リストファー・コロンブスによって発見されたエスパニョラ島で、スペインが本格的な支配を開始した。1502年に赴任したインディアス総督ニコラス・デ・オバントは、イザベラ女王に「エンコミエンダ制」を提案し、翌1503年採用された。これは征服者や入植者にその功績や身分に応じて一定数のインディオを割り当て、一定期間その労働力として使役する権利を与えると共に、彼らを保護しキリスト教徒に改宗させることを義務付けるものである。エスパニョラ島の先住民はスペイン人に酷使され、人口は激減、絶滅へと向かっている。スペインはさらにプエルトリコ、ジャマイカ、バハマ諸島への入植を進めており、各地で奴隷狩りが行われている。


7位 ヴァルトゼーミュラーが新大陸を「アメリカ」と命名

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イツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーは、1507年4月、「プトレマイオスの慣例に習いアメリゴ・ヴェスプッチの探検を組み入れた世界地図」を発表した。新旧大陸が示されたこの地図の中でヴァルトゼーミュラーは、クリストファー・コロンブスではなくアメリゴ・ヴェスプッチの探検に敬意を表し、新大陸を「アメリカ」と名づけている。


8位 ボルジア父子の野望潰える

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である教皇アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)の下、教皇軍最高司令官チェーザレ・ボルジアはイタリア各地を次々と征服していた。しかし1903年8月、共にマラリアに感染したことで父子の運命は暗転する。8月18日、アレクサンデルが死去。チュザーレは回復するが、教皇の座はピウス3世を経て、仇敵ジュリアーノ・デラ・ローヴェレ(ユリウス2世)が手にする。このときチュザーレは「教皇軍最高司令官」及び「ロマーニャ公」の地位の確保をユリウスと密約して、教皇就任を後押してしまう。ユリウス2世はこれを反故にしてチュザーレを捕縛。チュザーレは1504年8月、スペインに移送され、1506年10月に脱獄するが、1507年3月、亡命先のナバラ王国とスペインとの戦闘で戦死した。ボルジア父子の野望は潰えたが、イタリアの動乱は治まる気配を見せない。ユリウス2世は1508年、フランスとスペインの力を借りて念願であったヴェネツィア共和国の脅威の除去に成功するが、今度はフランスの影響力が大きくなりすぎたことを懸念し、ヴェネツィアと同盟してフランスを牽制した。これに対しフランスは1510年にトゥールで教会会議を招集するという反撃にうって出た。フランスの司教団は教皇への忠誠を放棄し、ルイ12世は教皇の廃位を企て、フランスと教皇の対立は決定的なものとなった。


9位 王陽明が陽明学を起こす

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の儒学者王陽明が、僻地の貴州龍場駅で、「龍場の大悟」といわれる新学説・陽明学を誕生させた。官吏でもあった王陽明は1906年、宦官劉瑾の専横を批判する上奏文を、皇帝武宗に提出したが容れられず、劉謹の恨みを買って、はるか僻地の龍場の役人に左遷されていた。彼はこの言葉も風俗も異なる少数民族の住む地にあって、厳しい自炊生活を送りながら、思索を続け、陽明学を誕生させた。彼は、知と行を切り離して考えるべきでないという「知行合一」の思想に基づき、学問のみでなく静坐など実践を通して心に理をもとめることを主張している。また、自分の心に理を求めたり、自己の中にある判断力を求めることは、全ての人に可能なことであるとし、「満街の人すべて聖人」という彼の言葉が民衆の間で評判となっている。


10位 三浦の乱

寇の対応に苦慮する李氏朝鮮では、釜山浦・薺浦・塩浦の三つの港のみを対馬、壱岐などの民に開港し、そこに倭館を設置して交易を行う様に統制策を取り倭寇と識別していた。しかし密貿易が増大すると、李氏朝鮮の官僚達は圧力を加え、居留日本人に対する統制を強化していった。それに対して貿易で生計を立てていた日本人の不満は増大し、対馬の宗氏の軍を主力として攻め入り、釜山浦、薺浦を陥落させるが、結局日本軍は大敗を喫する。駐留日本人は追放され、日本と朝鮮の間は一時断交状態となっている。