1511-1520


1位 オスマン帝国がアラブ全域を制圧

http://maltez.info/aaanetnovabiografia/1500-1549/1512.jpghttp://www.kismeta.com/diGrasse/Costume/Otto/Janissaries.jpeghttp://www.d5.dion.ne.jp/~d-nakano/arab/zwaira.jpg
スマン帝国が第9代スルタン・セリム1世の下アラブ全域を制圧し、三大陸にまたがる世界帝国にのし上がった。第8代スルタン・バヤズィト2世は平和を好み、領土の拡大には消極的であったが、そんな父の統治に不満を持ったセリム1世は1512年、父を退位させてスルタンに就いた。それまでの帝国の領土拡大は主に異教徒の地バルカン半島へと向かっていたが、セリム1世は自らをアレクサンドロス大王になぞらえ、ムスリムの地中東の征服を推し進めていく。最初の敵は、破竹の勢いでイランを制圧し、オスマン帝国領内の遊牧民にまで影響を及ぼしていたサファヴィー朝であった。1514年8月23日、オスマン帝国軍はアナトリア高原東部のチャルディラーンでイスマーイール1世率いるサファヴィー朝軍と激突し勝利した。首都タブリーズを一時占領されたサファヴィー朝は建国期の勢いを失い、停滞した。セリム1世は1515年からアラブへの遠征を開始し、疫病、内紛、ポルトガルとの戦いで疲弊していたマムルーク朝に襲い掛かった。1516年にはシリアを、翌1517年には本拠地のエジプトを制圧してマムルーク朝を滅ぼした。これによってオスマン帝国は聖地メッカ、メディナの守護者となり、スンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した。セリム1世の軍は、イェ二チェリ鉄砲隊と大砲を駆使してサファヴィー朝のクズルバシュ、マムルーク朝のマムルークといった優秀な騎兵隊を壊滅させ、近代的軍隊の優位性を見せ付ける格好となった。この大征服によって帝国の領土は230余万平方キロから650余万平方キロにまで増大した。セリム1世は1520年9月22日に没し、息子スレイマン1世がスルタンに即位したが、彼もさらなる領土拡大をもくろんでいるという。


2位 マルティン・ルターが贖宥状の販売を批判

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ヴィッテンベルク大学の神学教授、マルティン・ルターの言動がドイツ全土に大きな波紋を広げ、本格的な宗教改革の様相を呈している。ルターは、1517年10月31日大学の学内掲示板となっていたヴィッテンベルク城教会の扉に、『95ヶ条の論題』を掲出した。その中でルターは、マインツ大司教アルブレヒトが推し進めていたサン・ピエトロ大聖堂建設献金のための贖宥状販売を贖宥行為の濫用として批判した。『95ヶ条の論題』はラテン語で書かれていたがすぐにドイツ語に訳され、国内に広く出回った。既存のカトリック教会への不満がくすぶっていたドイツ国内の空気にルターの論題が火をつけることとなった。教皇庁内部ではルターが教皇の権威を揺るがす危険性があるとの声が強まり、1518年10月アウグスブルクでの審問で教会はルターに自説の撤回を求めたが、ルターこれを拒否した。逮捕を恐れたルターはアウグスブルクから逃亡し、いち早くルター支持を表明していたザクセン選帝侯フリードリヒのもとに逃れた。1920年、ルターは相次いで文書を発表して自説を展開した。『ドイツ貴族に与える書』では教会の聖職位階制度を否定し、『教会のバビロン捕囚』では聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定、『キリスト者の自由』では人間が制度や行いによってでなく信仰によってのみ義とされるとした。これら「三改革文書」によってルター問題は贖宥状販売の是非からキリスト教改革運動へと拡大した。1520年12月、教皇レオ10世はついにルターに破門を警告する回勅を発布するが、ルターはこれをヴィッテンベルク市民の面前で焼却し、破門は決定的となった。


3位 コルテスがアステカ王国の首都に入城

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ステカ王国では、テスカトリポカ神に追われた白い肌を持つケツァルコアトル神が戻って来る『一の葦』の年(1519年にあたる)が迫り、人々は漠然と将来に不安を感じ始めていた。『一の葦』の年の2年前(1517年)から東方の沿岸に白い異邦人が現れるようになり、その情報が逐次アステカ国王モクテスマ2世に伝わった。人々は白い異邦人が帰還したケツァルコアトル一行ではないかと噂しあったが、実はスペインキューバ総督府からメキシコ周辺の情報収集を命じられたスペイン人の一団であった。彼らはキューバに戻ってアステカの繁栄をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した。ベラスケスの配下であったエルナン・コルテスは野心をくすぐられ、1519年2月、総督の命令を無視してアステカ征服を目指して16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島に上陸した。コルテスはタバスコ地方の勢力との戦いに勝利すると戦利品として贈られた女奴隷の中からマリンチェという没落貴族の娘を選んで現地妻にした。彼女は通訳としてまた現地の案内役として有能でコルテスにも献身的に仕えた。さらに軍を進めたコルテスは有力なトラスカラ王国と戦いこれを屈服させた。トラスカラは長年アステカの圧政に苦しんでいたためこれを機にコルテスと同盟を結んだ。コルテスは数万の同盟軍を得て自信を深めトラスカラ残留部隊を除いた400人の部下と千人のトラスカラ軍を率いてアステカ深部へと進軍していった。『一の葦』の年に現れたコルテスはケツァルコアトル神の化身と信じられて順調に進軍し、1519年11月18日、モクテスマ2世に迎えられてテノチティトランに入城した。テノチティトランの名所を案内されその豊かさと繁栄振りに目を見張ったコルテスは、入城6日目にしてモクテスマ2世を捕らえると宮殿に幽閉して人々に人身御供の禁止を布告した。終末を迎えてしまうと焦燥にかられてアステカ人は蜂起した。その結果、モクテスマ2世はスペイン人の人質とされた。1520年7月1日、民衆をなだめようと宮殿のバルコニーに出たモクテスマ2世は人々に糾弾されて殺された。


4位 ポルトガルが東南アジア・東アジアに進出

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ンド洋の覇権を確立したポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケの次なる狙いは香辛料の原産地モルッカ諸島への中継地であるマレー系イスラム港市国家マラッカであった。アルブケルケは1511年、18隻の艦隊を率いてマラッカ征服に来航、数ヶ月の攻防戦の後マラッカはついに陥落した。アルブケルケはさらに1515年、ペルシア湾のホルムズ島を占領したが、この途上で死去した。ポルトガルはさらに明との貿易権獲得を狙い、トメ・ピレスを使節に任じた。トメ・ピレスらは1517年、広州から明に上陸し、同年北京入りしたが、交渉は失敗し、そのまま消息を絶った。東アジア進出の課題は残ったが、アジアにおけるポルトガルの海上覇権はほぼ完成し、ヨーロッパへの香辛料供給は、イスラム商人を経てベネツィア商人へともたらされる地中海ルートから、ポルトガルが支配するインド洋ルートへと取って代わり、ポルトガルに莫大な富をもたらしている。


5位 ナーナクがシク教を創始

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ンドのパンジャーブ地方で、グル・ナーナクの教えが広がりを見せ、シク教と呼ばれている。ナーナクはの教えはヒンドゥー教と同様に輪廻転生を肯定しているが、カースト制を否定し、礼拝後には男女貴賎を問わず、すべての人が同じ場所に座り同じ食べ物を分けあう事を奨励している。儀式、偶像崇拝、苦行、ヨーガ、出家を否定し、世俗の職業に就いてそれに真摯に励むことを重んじるという。


6位 スペインが新大陸に黒人奴隷を輸入

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大陸のイスパニョーラ島、ジャマイカ、キューバ、バハマ諸島ではスペイン人による奴隷狩りと彼らの持ち込んだ疫病によって先住民の人口は激減し、絶滅へと向かっている。現地のスペイン人はサトウキビのプランテーション経営を維持するため1917年、ポルトガル商人より黒人奴隷の輸入を開始した。ポルトガル商人はさっそく、黒人諸王国からの奴隷買付けに奔走している。


7位 バルボアがパナマ地峡を横断し太平洋に到達

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スパニョーラ島の開拓者であったスペイン人バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは黄金の産出地を求める探索中の1513年9月、パナマ地峡を横断し、太平洋に到達した。その後バルボアは探索にも同行した部下のフランシスコ・ピサロの手で捕らえられ、反逆罪に問われ処刑された。ピサロは黄金の国の探索を継続しているという。


8位 エラスムスが『痴愚神礼讃』を発表

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ーデルランド出身の司祭でオックスフォード大学教授デジデリウス・エラスムスは1511年、ラテン語による風刺文学『痴愚神礼讃』を発表した。エラスムスは1509年にロンドンの友人トマス・モアのもとに滞在している間、わずか一週間程度の短期間で本作を一気に書き上げたという。その内容は、痴愚の女神モリア(モリアエ)が聴衆を前に大演説会を開き、人間社会の馬鹿馬鹿しさや繰り広げられる愚行を饒舌に風刺するというものである。痴愚女神は軽妙洒脱な語り口をもって王侯貴族や聖職者、神学者、文法学者、哲学者ら権威者を徹底的にこき下ろしている。本書はヨーロッパ各国で出版されて大ベストセラーとなっているが、教会批判とも取れる内容が物議をかもしている。


9位 トマス・モアが『ユートピア』を発表

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国の官僚トマス・モアがラテン語で『ユートピア』を執筆・刊行し、大きな反響を呼んでいる。これは、ユートピアという架空の国を舞台に、自由、平等で戦争のない共産主義的な理想社会を描いたものである。モアの描く理想社会は、アメリゴ・ヴェスプッチの旅行記『新世界』に描かれたアメリカ先住民の社会をモデルにしているのと見られている。また、牧羊のための囲い込みによる村落共同体の破壊を批判した一節も注目を集めている。


10位 マキャヴェッリが『君主論』を著す

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フィレンツェの元官僚ニッコロ・マキャヴェッリが『君主論』を書き著した。内容は、歴史上の様々な君主および君主国を冷静に分析し、君主とはどうあるものか、君主として権力を獲得し、また保持しつづけるにはどのような能力が必要かを論じた著作である。フィレンツェの外交官として激動のイタリア動乱を経験した末の結論は、祖国イタリアの統一には、強力な君主が必要であるというものであったようだ。本書はロレンツォ2世・デ・メディチに上奏されたもので、刊行の予定はないというが、一部知識人には写本が出回り、その画期的な内容に評判が広がっている。