1531-1540


1位 ピサロがインカ帝国を征服する

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ランシスコ・ピサロ率いるスペイン人が、1931年よりインカ帝国の征服に着手し、1933年までに帝国を征服した。バルボアのパナマ遠征にも同行したピサロは、ディエゴ・デ・アルマグロと共に、何度か南アメリカを探検し、インカ帝国の存在を知る。 1528年にスペインに戻り、インカ支配の許可を取った。募集した兵士とともに1530年、パナマに戻り、1531年には約180人の手勢と37頭の馬を引き連れ、パナマを出港し、北部からペルーへの侵入を開始した。その頃、インカ帝国では帝国南部を支配していた兄ワスカルと北部を支配していた弟アタワルパによる内戦の最中で、これに勝利した新皇帝アタワルパは首都クスコを目指して南進ししていた。1532年、北部の都市カハマルカに駐留していたアタワルパをピサロが訪問した。アタワルパが服従を拒否すると、ピサロの兵は銃でアタワルパの兵を攻撃し、アタワルパをその場で生け捕りにした。ピサロは身代金として莫大な金銀を受け取ったにも関わらず、1533年7月26日、アタワルパをキリスト教に改宗させた上で処刑した。ピサロはトゥパック・ワルパ、次いでマンコ・インカ・ユパンキを傀儡として皇帝の座につけた。11月にはインカ帝国の首都クスコに無血入城。1535年1月18日にリマ市を建設した。自分がスペイン人の傀儡に過ぎないことに気付いたマンコ・インカは1536年、ピサロが新首都となったリマに行き、アルマグロがチリ方面の探検に出ている間に、宗教儀式の実行に見せかけクスコを脱け出し、10万人に及ぶインカの戦士を集め、クスコに進撃した。この戦役は10カ月続いたが、クスコは落ちず、その間インカの戦士の多くが天然痘により死亡した。アルマグロがチリ遠征から帰還すると、支配地の分配、特にクスコの領有権をめぐってとピサロと対立し始め、1537年からスペイン人の間で内戦が始まった。1538年、ピサロ側がアルマグロを処刑した。一方マンコ・インカは、1538年ビルカバンバに後退し再起の機会をうかがっっている。


2位 プレヴェザの海戦

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レイマン1世の下、領土拡大を続けるオスマン帝国が、1538年9月28日のスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊との海戦に勝利し、クレタ、マルタを除く全地中海域の制海権を握った。1453年5月29日のコンスタンチノープル占領後、オスマン帝国は、ピザンツ帝国の所有物であった港・造船所をそのまま利用すると同時に、優れた造船技師たちをそのまま手に入れ、自国の海軍力増強に力を注ぎ始めた。次々とガレー船が建造され、オスマン帝国の海軍力は強力になっていった。ガレー船が増えれば、当然その漕ぎ手が必要になる。オスマン帝国は、キリスト教徒を奴隷としてガレー船の漕ぎ手に従事させた。また、地中海各地からオスマン海軍での栄達を狙い、イスラム教徒に改宗してオスマン帝国にやってくる者たちも後を絶たなかった。「赤髭」で有名なバルバリア海賊のバルバロッサ=ハイルッディンもその一人である。1538年になって、皇帝・教皇・ヴェネツィアの間で対トルコ連合艦隊編成の同意が成立した。だが、その編成までには長い時間がかかった。北アフリカに野望を持つスペインは連合艦隊の戦略目標として北アフリカを主張する。それに対してヴェネツィアは東地中海の制海権を取り戻すことが急務であったために、東地中海に艦隊を動かすと主張した。この両者の意見の食い違いは教皇によって仲裁され、トルコ艦隊を撃滅したのちに次の目標を議論することに落ち着いた。6月半ば、予定終結地のコルフ島にヴェネツィア艦隊、次いで、約束の数よりは少ないものの法王庁艦隊も到着した。だが、ドーリア率いるスペイン艦隊は一向に姿を見せなかった。大帝スレイマンの命の下、オスマン帝国は地中海制海権獲得をめざし、トルコ艦隊をヴェネツィアの領土であるコルフ島攻撃に差し向けた。オスマン艦隊の司令官はバルバロッサ=ハイルッディンである。ハイルッディンはこの時、オスマン海軍大提督兼アルジェ総督であり、オスマン海軍のまさに中心であった。連合艦隊の足並みが揃わない間、トルコ艦隊は途中でエーゲ海のヴェネツイアの領土の島々を次々と攻め落とした。ヴェネツィア艦隊の怒りが頂点に達しようというとき、ようやくスペイン艦隊は約束の82隻よりもずっと少ない49隻を率いてコルフ島に姿を現した。連合艦隊は、1538年9月コルフ島を出発した。一方、オスマン帝国側はアルタ湾の内側に集結していた。連合艦隊は、湾の入り口にあるプレヴェザに近づいたが、攻めきれないと見るや南方へ退く。それに対しオスマン帝国艦隊は連合艦隊を追跡し、レフカダ島沖で追い着いた。連合艦隊は一旦は受けて立とうとしたが、陣形の整わないうちにオスマン艦隊の襲撃を受け、数隻の船がオスマン側に捕獲されたところで、アンドレア・ドーリアによる撤退命令が出て撤退した。結局、大した戦闘をしないまま撤退したので、連合艦隊の損害はさほど大きくはなかったが、キリスト教側は大きな失望感を味わい、またオスマン帝国の優位を印象づけることになった。この敗戦の結果、ヴェネツィアは30万デュカートもの賠償金をオスマン帝国に支払う羽目になり、エーゲ海の海外領土を完全に失った。こうして、ヴェネツィアは衰退しオスマン帝国が地中海の制海権を握ることになった。


3位 英国国王が国内教会を直接支配

http://www.smh.com.au/ffximage/2008/03/13/Boleyn_080313085816102_wideweb__300x375.jpghttp://www.mapsofworld.com/travel-destinations/images/tower-of-london.jpg
国で、欧州大陸で行われているものとはまったく異質な宗教改革が断行された。国王ヘンリー8世は、愛人アン・ブーリンが懐妊すると、キャサリン王妃との離婚およびアン・ブーリンとの再婚を図ったが、神聖ローマ皇帝カール5世の強い影響下にあった教皇クレメンス7世はスペイン出身でハプスブルグ家と関係の深いキャサリン王妃との離婚を却下した。ヘンリー8世は教皇との決別を決意し、1533年に国内の大司教にキャサリン王妃との離婚を認めさせ、王はアン・ブーリンと再婚した。教皇はヘンリー8世を破門する。ヘンリー8世はついに1534年には国王至上法(首長令)を発布し、自らをイギリス国教会の長とするとともに、ローマ・カトリック教会から離脱した。カトリック信徒の立場からこれに反対したトマス・モアは査問委員会にかけられ、同年ロンドン塔に幽閉、1535年7月に処刑された。修道院が保持していた教会財産は国家へ移されていき、イギリスの修道院は破壊され、荒廃した。こうまでして結婚したアン王妃であるが、王女エリザベスを生んだのち、1536年、反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪で死刑判決を受け、ロンドン塔にて斬首刑に処せられた。