Rクラス解説


ル・マン 24時間レース (24 heures du Mans)

R8 TEAM GOH 2003 & 20042003年 2004年 5号車 LMP900
AUDI R8 は、2000年〜2005年までル・マンで大活躍した耐久レース専用のレースカーである。00年〜02年まで3年連続優勝、プライベーターに委ねられた03年こそトラブルにより3位、4位となったものの、04年、05年と勝利を収め6年間で5勝をあげる偉業を成し遂げた。郷和道率いるチーム郷は02年〜04年にマシンを使用。02年は7位、03年は4位で完走、そして04年ついに総合優勝を遂げる。日本国籍チームとしては1991年のマツダ以来13年ぶり2度目。04年のドライバーは荒聖治、トム・クリステンセン、リナルド・カペロ。荒聖治は1995年の関谷正徳に続き、日本人で2人目の総合優勝者となった。
エンスージアの挙動エンジンはチーム郷の協力により開発された。また総合優勝した04年、プロデューサーの秋田学はチームスタッフとして参加していた。


GT-one(TS020)1999年 3号車 LMGTP
1998年、1999年にル・マンに参戦したマシン。建前上はGTカーとなっているが、実態はプロトタイプのレースカーである(99年はプロトタイプとしてエントリー)。トランクルームの中に燃料タンクを入れるという手法でレギュレーションの穴を抜け、レースカーとして理想的なスタイルを手に入れている。1年目の98年から他を圧倒する速さを見せるものの、ラスト1時間のミッショントラブルで惜しくも優勝を逃してしまう。2年目の99年も昨年同様速さを見せ付けるが、早々に本命の2台がリタイヤ。 片山右京・鈴木利男・土屋圭市のドライブする3号車は、終盤2位と1周差の3位を走行していたが、首位のBMWがリタイアすると、優勝目指してペースアップ。猛烈なスピードで差を縮めていたが約20秒差までつめた時タイヤがバースト。惜しくも2位となったのである。


R390 GT11998年 32号車 GT1
1997年、1998年にル・マンに参戦したマシン。GTカーとは名ばかりで、中身はプロトタイプのレースカーである。参戦1年目の97年は、トランクルームをメッシュとし、ギアボックスの冷却ダクトに収納していた。しかし現地でこれがレギュレーション違反とされ、急遽トランクルームを密閉型とした。そのため、ギアボックスの冷却が阻害され、トラブルに泣かされた。翌98年は97年のマシンをロングテール化し参戦。昨年の痛い経験から日産は信頼性重視にマシンを仕上げた。一発の速さでは他マシンに及ばなかったがしぶとく走り続け、星野一義、鈴木亜久里、影山正彦がドライブする32号車が、見事3位表彰台をゲットしている。また、この年4台投入されたR390は全て完走し、5、6、10位を獲得している。


マクラーレン F1 GTR1996年 38号車 GT1
1995年以降、ル・マン、FIA-GT、JGTC等で活躍したマシン。ベースとなったのはマクラーレンが1991年に発表した1億円のスーパーカー、マクラーレン F1 であり、純粋なGTカーベースのレースカーである。ル・マンには1995年にデビュー、関谷正徳が日本人ドライバーとして初の総合優勝を果たしている。1996年のJGTCでは、ジョン・ニールセン、デビッド・ブラバムがGT500クラスでドライバーズチャンピオンを獲得。エンスージア収録車は1996年のル・マンに出場した38号車で、結果は11位であった。その後テールエンドを後方に伸ばし空力特性を向上させたロングテールバージョンも登場している。


787B1991年 55号車 グループC
1991年、グループC のレギュレーション変更により、ロータリーエンジンの使用が最後となった年*1のル・マンで、日本車として、及びロータリーエンジン搭載車として初の総合優勝を果たしたマシン。フォルカー・バイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーがドライブ。前年に安全上の理由からユノディエールに2つのシケインが設けられたサルトサーキットを362周、4923.2km走った。同年、もう一台の787B・18号車は6位、前年型の787・56号車は8位に入っている。エンスージアでは官能的なロータリーサウンドが見事に再現されている。
 

世界ラリー選手権 (World Rally Championship, WRC)

スバル インプレッサ WRC2003年〜2005年
2003年にデビューしたWRカーで、02年10月にモデルチェンジした インプレッサ WRX (GDB type II) をベースとしている。03年シーズンはペター・ソルベルグが14戦中4勝をあげ、自身初のドライバーズチャンピオンに輝いた。また、過去4度のドライバーズチャンピオンを獲得している同僚のトミ・マキネンは、ポイントランキング9位でシーズンを終え、17年の長きにわたって活躍してきたWRCの舞台から引退することとなった。04年はペター・ソルベルグが16戦中5勝、05年は同じく16戦中3勝をあげ、2年連続ドライバーズ選手権2位を獲得している。
エンスージア収録車は実はこの SUBARU WORLD RALLY TEAM が走らせるWRカーではなく、SUBARU RALLY TEAM USA のものである。良く見ればカラーリングや、リアスポイラーのバーチカルフィンの有無などの違いがある。スペックも385psとなっており、WRカーの300psとは大きくかけ離れている。


ミツビシ ランサー エボリューション WRC2001年〜2002年
2001年第11戦サンレモでデビューした、三菱初のWRカーである。ランサーエボリューションの名が冠されているが、ベース車両はランサーセディアであり、外見をランサーエボリューションVIIに似せて作ったに過ぎない。96年〜99年まで三菱は、グループAランサーでトミ・マキネンが4年連続ドライバーズタイトルを獲得するなどの大活躍を見せた。だが、00年は遂にグループA車両でライバルのWRカーには対抗できなくなり、01年よりWRカーにスイッチした。しかし思った以上の成績を収めることが出来ず、03年はニューマシン開発の為に活動を休止してしまった。
エンスージア収録車はこのWRカーではなく、アドバンカラーパターンのグループN車両、ランサー エボリューション VII だと思われる。


フォード フォーカス RS WRC2003年〜2005年
2003年第4戦ニュージーランドでデビューした、初代フォーカスベースのWRカー。フォーカスWRCは99年にデビューしているが、このRS03型は鬼才クリスチャン・ロリオーの開発によって、より一段と競争力を高められたマシンである。03年はマルコ・マルティンがギリシャとフィンランドで優勝、04年はマルティンが3勝をあげドライバーズ選手権3位、マニュファクチャラーズ選手権では2位に輝いた。しかし05年、フォードは経営状態の悪化から予算を大幅に削減しなければならなかった。ドライバーも刷新し、06年デビュー予定の新型フォーカスWRCの開発に専念するため、前年型となるRS04型を継続使用。ポディウムの頂点に立つことなくシーズンを終えた。
エンスージア収録車は2003年第4戦ニュージーランドでデビューしたときのものである。


シトロエン クサラ WRC2001年〜2006年
2001年第4戦カタルニアでデビューした、クサラをベースとしたWRカー。同じPSAグループのプジョーもWRCに参戦していることもあって、01年、02年はスポット参戦であった。01年は第12戦コルシカでヘサス・ピュラスにより初勝利をあげ、02年は第10戦ドイツでセバスチャン・ローブが勝利している。03年はコリン・マクレー、カルロス・サインツといった大物ドライバーを迎えフル参戦開始。ローブ3勝、サインツ1勝でマニュファクチャラーズタイトルを獲得。04年からはローブ+クサラは敵無しで、3年連続ドライバーズチャンピオンを獲得、特に06年シーズンはワークスが撤退し、終盤4戦は怪我により欠場したにもかかわらず、である。マニュファクチャラーズタイトルは終盤のローブの欠場が響き、フォードに奪われてしまったが、それでも05年まで3年連続で獲得している。また、ローブはWRC引退までにタイトル9連覇と通算78勝をマークしている。
エンスージア収録車は実際とはカラーリングが異なるため、年式等は不明である。


プジョー 206 WRC1999年〜2003年
1999年第6戦ツール・ド・コルスでデビューした206ベースのWRカー。206はWRカー規定の全長4mに達しておらず、バンパーを延長した206GTというモデルを発売して、どうにかホモロゲーションを受けることができた。99年は勝利こそ無かったものの、何度かトップを走る活躍を見せ、ポテンシャルの高さを示した。00年第2戦スウェディッシュでマーカス・グロンホルムが初優勝を遂げると、その後も3勝しドライバーズチャンピオンを獲得、ジル・パニッツィもターマックで2勝をあげ、マニュファクチャラーズタイトルも獲得した。その後02年まで3年連続でマニュファクチャラーズタイトルを獲得、グロンホルムは01年にリチャード・バーンズにタイトルを奪われたものの、02年には再び王座に返り咲いた。03年はグロンホルムが3勝、パニッツィが1勝したが、いずれのタイトルも防衛することはできなかった。
エンスージア収録車は00年開幕戦モンテカルロ仕様。フル参戦初年度の初陣となるラリーで、レグ2の朝に3台ともスタートできなくなるという大失態を演じてしまった。
 

全日本GT選手権 (Japan GT Championship, JGTC)

ザナヴィ ニスモ GT-R2003年
03年、本山哲、ミハエル・クルムがドライブ。勝利こそなかったものの、第1戦TIで2位、第3戦SUGOで3位、第5戦富士で2位に入るなど、何度もポディウムに上り着実にポイントを稼いだ。そしてポイントランキング2位で迎えた最終戦鈴鹿で3位に入り、見事逆転チャンピオンに輝いたのだった。
このR34ベースのJGTC車両は99年から03年まで使用され(市販車 R34GT-R は2002年排ガス規制により消滅)、99年(エリック・コマス)と03年にドライバーズタイトルを獲得している。
スカイラインGT-Rと言えば直6(RB26DETT)であり、JGTC車両にもそれが搭載されていたが、02年途中からはV6 3リッターエンジン(VQ30DETT/2987cc/ツインターボ)を搭載している。


エッソ ウルトラフロー スープラ2003年
前年02年のチャンピオン、脇坂寿一、飯田章がドライブ。第1戦TI、第3戦SUGOで勝利しポイントランキングトップで最終戦を迎える。しかし最終戦鈴鹿では7位に終わり、ザナヴィ ニスモ GT-R の本山哲、ミハエル・クルムにチャンピオンを奪われてしまった。
ベースとなったJZA80スープラは1993年に発売され、2002年に排ガス規制をクリア出来ず姿を消したが、レースカーはJGTC本格開催初年度の1994年からSUPER GT 移行初年度の2005年まで使用された。97年 ペドロ・デ・ラ・ロサ、ミハエル・クルム、01年 立川祐路、竹内浩典、02年 脇阪寿一、飯田章、05年 立川祐路、高木虎之介らをドライバーズチャンピオンへと導いた。
02年までは2リッターターボ(3S-GTE)を使用していたが、 03年はソアラ、セルシオなどに採用されている、4.2リッターエンジンをボア&ストロークアップした5.2リッターエンジン(3UZ-FE/5163cc/NA)を搭載している。


G'ZOX-NSX2003年
03年、伊藤大輔、トム・コロネルがドライブ。第6戦もてぎで勝利をあげるものの、ポイントランキングは10位に終わった。
ベースとなったNSXは1990年に販売を開始し、1999年のマイナーチェンジでエンジンを低公害化したため2002年以降も販売を続けていた。しかし2006年より欧米で始まる規制には対応せず、2005年限りで生産を終えた。JGTCには1996年から参戦を開始し、SUPER GT 移行後も09年まで参戦を続けていた。00年にはGT500クラスで道上龍が、04年にはGT300クラスで山野哲也、八木宏之が、07年にはGT500クラスで伊藤大輔、ラルフ・ファーマンがドライバーズチャンピオンを獲得している。
02年までは市販車同様横置きエンジンだったが、03年よりレギュレーションの変更を受け、 縦置きに変更。よりレーシーなマシンになった。 しかし、前面投影面積ハンデ、ミッドシップハンデを課せられ、前半戦は苦戦を強いられた。
 

ダカール ラリー (DAKAR RALLY)

パジェロ エボリューション2002年*2〜2006年
三菱のダカール参戦の歴史は長く、1983年*3から参加し数々の栄光を手にしている。パジェロ エボリューションは、2003年ダカールラリーに増岡浩とステファン・ペテランセルで参戦。ペテランセルが25分リードでトップを走っていたが、ゴールの前日にクラッシュし3位に後退、2位を走っていた増岡が逆転優勝、ダカールラリー史上4人目となるV2を達成した。翌04年はレギュレーションの変更によりエンジンを3.5Lから4.0Lに拡大。ペテランセルが優勝し、史上2人目の二輪・四輪両部門制覇を達成。増岡は2位となり三菱の1-2フィニッシュとなった。以降パジェロ エボリューションは毎年進化を続けながらライバルたちを退け続け、新型車両を投入した2007年にも勝利を挙げたことで、三菱は前人未到のダカールラリー7連覇、通算12勝を達成した。
エンスージア収録車は04年モデルのシェイクダウン時(03年12月21-22日)のものである。シェイクダウンとは言ってもこの4.0Lバージョンはモロッコで7月にテスト、10月にはUAEデザートチャレンジに出場し優勝している。


ピックアップ2002年〜2003年
日産車はプライベーター「チーム・ドスード」が1982年から参戦しており、以来チーム・ドスードが日産のダカール参戦活動の中心的役割を担い、活動支援、競技車両製作などを行ってきた。02年に南アフリカ日産がスーパープロダクションクラス仕様のピックアップを制作、チーム・ドスードによりダカールに参戦すると、翌03年に日産はその02年仕様ピックアップをベースとした改良車で初めてワークス参戦を果たした。ワークスチームは3台投入され、ジニール・ドゥビリエ、アリ・バタネン、篠塚健次郎がドライブし、結果はそれぞれ5位、7位、リタイアであった。ワークス以外にもチーム・ドスードが2台のピックアップを走らせている。
エンスージア収録車は03年の204号車、アリ・バタネンがステアリングを握ったものである。
 

Others

CLK-DTM 2002年 DTM (ドイツ・ツーリングカー・選手権)
2002年のDTM・ドイツツーリングカー選手権に参戦したマシン。発表は同年のジュネーブモーターショウで量産公道仕様のCLKと同時に行われた。レースカー仕様とその量産公道仕様が同時に発表されるのはメルセデス・ベンツとしては初めてであるが、それぞれのボディとスペースフレームは全くの別物である。エンスージア収録車は02年のチームボーダフォン。00年、01年チャンピオンのベルント・シュナイダーがドライブした。02年シーズンはアウディTT-Rに乗る、ローラン・アイエロとの間でチャンピオン争いを繰り広げたが、シーズン前半の5戦で4勝を挙げたアイエロに逃げ切られ、チャンピオンを守ることは出来なかった。また、02年はF1を引退したジャン・アレジが参戦(CLK-DTM)を開始した事で話題になった。


アストラ V8 Coupe 24h2003年 ニュルブルクリンク24時間耐久レース
ニュルブルクリンク24時間耐久レースは、全長約20kmの有名な北オールドコースと、グランプリコースとを組み合わせたコースで開催される伝統の一戦である。元来、草レース色の強いレースであったが、年々ワークスの参加が増え、2003年にはDTMマシンであるオペル・アストラV8クーペ、アウディ・TT-Rが初参戦。他にも純ワークスマシンとして、BMW・M3 GTR、ポルシェ911 GT2が参戦した。エンスージア収録車は2003年、DTM規定車両として初参戦を果たしたOPCチーム・フェニックスの5号車で、ドライバーはマニュエル・ロイター、ティモ・シャイダー、マーセル・ティエマン、フォルカー・ストリチェク。2位のアプト・アウディ・TT-Rに5周差の143周を走り、総合優勝に輝いた。


M1 Procar1979年〜1980年 PROCARシリーズ
グループ5(通称シルエット・フォーミュラ)で行われる世界選手権(1976年〜)で勝つために開発されたマシンがM1である。当初BMWはこのカテゴリーに3.5CSLで参戦していたが、ポルシェ935に敗北を喫したことからプロジェクトがスタートした。ホモロゲーションを獲得するには400台の市販車を生産しなければならないが、BMWの子会社「BMWモータースポーツ」社にはそのような生産能力はなく、ランボルギーニ社に設計・生産を委託した。しかしランボルギーニ社の経営破たんにより、計画は遅れに遅れ、400台を生産し終えたのは80年末。82年からはグループCによる世界選手権が始まることもあり、M1プロジェクトは消滅した。しかしF1の前座として現役F1ドライバーによるワンメイクレース、「PROCARシリーズ」が79年、80年の2年間開催され、人気を博した。


3.0 CSL1973年〜1979年 ETC (ヨーロッパツーリングカー選手権)
3.0CSL(市販車)は、ETC・ヨーロッパツーリングカー選手権で勝つために、3.0CSをベースに開発された、レース用ホモロゲーションモデルである。ボンネット、トランクリッド、ドアにアルミパーツが使用されるなど徹底的な軽量化がはかられ、車重は3.0CSより200kgも軽い1165kgであった(CSLのLはドイツ語の"Leicht" 軽い)。エンスージア収録車はそのレース用車両で、更に100kgの軽量化、エンジンは3.3リッターへとボアアップがなされている。その後3.5リッターDOHCエンジンを搭載し、73年から7年間ETCのチャンピオンに君臨した。


ENTHUSIA
用語集
ENTHUSIA LIFE
DRIVING REVO
TIME ATTACK
FREE RACE
VS RACE

■各種データ
収録コース
収録車種
 ┣Rクラス
 ┣Aクラス
 ┣Bクラス
 ┣Cクラス
 ┣Dクラス
 ┣Eクラス
 ┣Fクラス
 ┗メーカー別

■その他
バグ情報
Q&A
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*1 1993年から再び参戦可能になった
*2 03年パリダカの前哨戦となる02年11月のUAEデザートチャレンジがデビュー戦
*3 83年はプライベーター、84年からワークス参戦