武雄の蘭学入門


フェートン号事件

1808年(文化5年)8月イギリス軍艦が不法に長崎港に侵入した オランダ商館員を捕らえ、薪・水・食糧を得て退去した。

当番の肥前藩主も責任を問われ逼塞を命じられた。

それから20年後

この事件で味わった屈辱を晴らすため、西洋の優れた軍学を学ぶ動きが出てきた。 その先頭に立ったのが鍋島茂義。

1830年

このころ長崎でオランダ船を見学。 西洋の進んだ科学力に深い感銘を受けた。 蘭学の積極的な導入の開始である。 高島秋帆に面会。 武雄で洋式大砲鋳造に着手。 鋳造所は、塚崎城二ノ丸跡(現在の武雄高等学校内)

1837年

武雄真手野台場で高島流砲術による大規模な演習。

1840年

神埼で藩主直正に武雄の砲術を披露する。

「人間は一生のうちに多くの仕事を成し遂げた者が長生きしたことになる。 たとえ長生きしたとしても、成し遂げた仕事が少なければ、早死にしたのも同様である。」(蘭学の精神)

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