首都圏事業本部長の単なるなぐり書きですが、ご参考まで。
なにかあればどんどん書き足していってくださってけっこうです。
- くだらないことを仰々しく。「荘厳さもここまでくれば遊びである。」
- 最初における厳粛さはあくまで「笑いをかみ殺しながらの厳粛さであり、やがて来る爆発的熱狂に先立つ嵐の前の静けさであり、瞬発力のためのエナジヰの蓄積である。」ことを忘れてはいけない。
- 冗談と本気の境がわからないように。冗談と本気の間で発する火花こそが総会を盛りあげる。
- 苦しいときだからこそ楽しもう。
- 「厳粛なはじまりから苦しみを経て(意味不明)、爆発的フィナーレへと達するプロセスこそが重要だと思う。」
- われわれは世捨である。世捨以外のなにものでもない。世捨であって本当によかった。
- 「悲しさ」と「みじめさ」が通奏低音である。
- いやなことも笑い飛ばしてしまえば、「なんだこんなことだったのか」に転ずることだってある。
- ある人間が一見高尚な話をぶっていたところつぎの瞬間「ち●ぽ」を発する。とてもおなじ人間の所業とは思えない。しかしそれらをひっくるめてまるごと全部がその者の人格であり、趣味であり、教養であり、遊びであり、ユーモアとウイットなのである。ひとりの人間がみせる落差は大きければ大きいほどおもしろく、その者のスケールがしのばれ、魅力がにじみでる。そんな落差の集合がつくりだすめくるめく展望、その快感。「日本世捨協会は思考のジェットコースターだったのだ」、いまにして思う。
- 日本世捨協会成立時のコンセプトを表すキーワードとして、「気品をもって、俗っぽく。」?というものがあった。この輝きと有用性は、いまでも失われていない。
最近実家にあった渡辺一夫訳の「ガルガンチュワ物語」および「パンタグリュエル物語」を読んで愕然とした。日本世捨協会の発足のころ、当時学生だった私はこの一部の章を読み、「これこそが今後行われていく日本世捨協会総会だ!!」と感動したことがよみがえってきた。なぜ今まで忘れていたのだろう。長いあいだ追い求めていた失われたイメージの源泉はここにあった…。