世捨認定店の根底にあるもの


 いま当本部および北海道本部では、「世捨認定店」事業をすすめようとしています。一見うまくて安くて雰囲気がよくて、そして万人向けの店が「世捨認定店」としてラインナップされています。とくに最近のセレクションは、友人や上司や恋人を連れていっても遜色ない場所がたくさんあり、大いに楽しめることでしょう。

 しかし、それらの店が「なぜ」世捨と認定されたかは、単に「安くてうまい」とか、「雰囲気がよい」ということだけで語ることはできません。世捨認定店リストは「散歩の達人」(http://www.kousai-s.co.jp/book/sp0201.htm )や「サライ」(http://www.serai.shogakukan.co.jp/ )などとは違うのですから。

 世捨認定店は、世捨人が一人で世捨な気分にひたりつつ、心身を解放できる場所として選ばれたものです。もちろん世捨人以外が足を運んでも満足できる場所も少なくありませんが、そもそもはそういうものです。では、そこで想定されている「世捨人」や「世捨な気分」とはどのようなものなのでしょうか。

 「世捨」は主流にはなりえない。そして世捨のたどる途は、究極的には破滅へと通じている(それでも世捨人はその途を歩まなければならない!)。そんなみじめで悲しい世捨人たちが、それでも生きる喜びを感じ、矜恃を失わず、きたるべき崩壊へのあゆみを自覚しながら一日でも長く自分自身を防衛する。これが、日本世捨協会の発足からあらゆる活動に一貫して流れている、通奏低音とでもいうべきものなのです。

 上のような日々の中で、世捨人たちがせめてもの慰楽と息抜き(仕事が忙しいかどうかは別として、職場で、それ以外で、世捨人は心を休め、慰められることはない)のために立ち寄る場所。自分が世捨であること、世捨以外の何者でもありえないこと、「それでも自分は世捨でよかった」こと…を、からだとこころの芯底から実感できる場所、それが「世捨認定店」のほんとうの基準なのです。

 最近、世捨人の中には、日本世捨協会を何か趣味のよい、良識的で、指導的なあつまりと「だけ」とらえる向きもあるようですが、すくなくとも、当本部の世捨認定店の認定のありかたは、そのような考え方とは一線を画するようにしています。ですから、かならずしもきれいな店や趣味のよい店ばかりが選ばれているわけではありません。「世捨」だからこそ、えらんだのです。

 世捨認定店に足を運ばれたときには、なぜこれらの店が認定されたのか、そしてそこで過ごす世捨人の心情に、思いを寄せられるのもまた一興でしょう。


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