2010 / 10


10/25

「失恋休暇というのを認めている会社があるらしいです」

『失恋休暇』とは、社員が失恋した際、年齢に応じて取得できる休暇。
申請日現在の年齢が25歳未満なら1日、
25歳以上30歳未満なら2日、
30歳以上なら3日間の休みが与えられます。
既婚者は『失恋はない』とみなし、失恋休暇を取得することはできない」

「月に1度社員さんがサイコロを振って、
出た目によって給料の増減を決めていましたよ」

「名前を変えて働けます」

「名刺や社内で互いを呼ぶのにビジネスネームを使うようにして
就業中は別人になり切り
公私をハッキリ分けようというユニークな制度があるそうです」

「上司と休日を過ごしたら、平日に休暇をとってもよい」

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なぜ彼らが面白く見えるかと言うと
仕事なんて「ネタ的」に処理するのが正しいのだ、という
ある種の達観が感じられるから。

この1ヶ月、思っていることですが
わたしは、それなりに重度の2ちゃんねらーですから
(ほぼ毎日、30分近くは見てる&書き込みする)
「ネタ」を「ネタ」と知りながら「ネタ」で返す
というのが、当たり前の場所を生きています。

「ネタ」に「マジレス」カコワルイ
ということになります。

前は、自身の人生にしろ、日々の暮らしにしろ
どこか、そういうところがありました。
全ては「虚構」であり、それを知りながら「虚構」をあえてやりぬく。
みたいなことができました。

ところが、それができなくなったのは
ほぼ明確に「会社」というものに入ってからで
「ネタ」ではなく「ガチ」で
色んな物事を考えるようになってしまいました。
それと同時に自分だけでなく
「ガチ」で生きている人たち、「マジレス」するがゆえに
社会で苦しい思いをしている人たちに目がいくようになりました。

なぜ、会社に入ってそうなったかは定かでありませんが
単純にもの凄い量で仕事やプレッシャーが降ってくると
「ガチ」でそれにかかってしまうからでしょう。
自分や周囲を「外部」の視点から見る余裕が無くなったんだと思います。
そもそも会社なんて(というか我々が生きている、仕事をしていると言う事態)が
ネタ以外に何であるのか?
という問いはあってしかるべきです。
なぜ、われわれは自分で自分の食料を生産せず
みんなで「社会ごっこ」「会社ごっこ」「自己実現ごっこ」をやるようになったのか。
これは全て「ネタ」だと解釈するしか無い。

だとすれば「ネタ」に「ネタ」で対応する組織が賢いのであり
それをまた「ネタ」として享受できる個人が豊かなのだと
思い至っています。

そんな虚構だらけの社会はイヤだ!
我々はそんな場所を生きているのではない!!
と言いたい気持ちも、ずーっとあったのですが
「ネタ」に「マジレス」する奴から、順番に生きづらくなるというのが
2ちゃんねるにしても、実社会でも、どうも現実のようです。
会社も然り。
であれば、そんな場所を転換・転覆させるより
自分が「ネタ」として振る舞う以外に無いんだろうなと思いつつある

10/21

twitterをやっていると 唐突に入ってくる「誰か」のコロプラ情報

いったい、あの位置情報は何なのか? と思ったら 自宅からの移動距離で仮想通貨がもらえる設定らしい。 それを使って、農産物を育てたり、まちを育てる。

しかもタダのゲームじゃなく このコロプラそのものが、1つの会社なんですね。

2日前に社会起業家の記事を書きましたが このコロプラみたいな空気で 緩やかに立ち上がってくるベンチャーも 非常に面白い。

そして、その事業は「人をつなげること」や「場所をつなげること」に 必ず関係していて そうでない事業(単に事業主だけがカネを稼ぐようなもの)は 圧倒的にダサい、という気配さえある。

ずいぶん面白いことになって来てる。

ついでに言うと、セカイカメラでもコロプラでもいいけど 人々は自分が日々、どこにいるとか、何をやっているとか ちょっと前だったら「プライベート」に値するような情報を むしろバンバンとネット上に流通させている。

しかもそれは「ログ」として ネット上に残っているので、然るべき方法をとれば その人の人生の一期間を「ログ」として 追いかけることさえ可能になっている。 別にブログを毎日書くとか、大それたことをしなくても 自動的に「ログ」が残る仕組みになっている。

社会全体にとって ログがいいのか悪いのかは分からないけど 個人的には書くこと、聞くこと(ノンフィクション、フィールドワーク的な視点)に加え「ログが残る社会」の3つが 活動のキーワードだと考えている。

最近のサービスはなんか面白いです。 知らないうちにどっかに繋がってる、というのが面白い。

10/20

今日は鹿嶋デーでした。
相変わらず
どこを撮っても「香ばしい」です。

鹿嶋に住んでいるとき、東京に行くことが非日常でした。
たまに東京に行って
八重洲ブックセンターに行ったり、カフェでお茶を飲んだり
二郎ラーメンを食べたり、ネットカフェに行ったり
という何でもないことをするのが
非日常でした。
あんなに近いのに(バスで2時間)どうしてこんなに
精神的な距離があるのか、不思議で、苛立ったりもしました。
(恐らくその苛立は、鹿嶋の若者の苛立と近いのか?)

それが東京に住むと
鹿嶋に行って、ジャスコを歩いたり、荒々しいロードサイド店舗を目にすることが
非日常と化し
「どこにでもある風景」を「あえて見に行く」という
不思議なことになっています。

いや、これは面白い。

そんな鹿嶋でのエピソードを紹介します。

そのロードサイドに、「とん善」というチェーン店の
とんかつ屋があるのですが
ロードサイド商業店舗の例に漏れず
とにかくデカく、派手な看板で

「と ん か つ」

とか書かれてるんです。
車からでも見えるように、ってことです。

三浦展に「これぞファスト風土」と言われそうな鹿嶋にあって
その典型とも言える店なのですが
ここのとんかつがまた、やけにウマいんです。
わずか、699円。
ご飯とか汁もの、キャベツもお代わりできますが
とにかく肉が柔らかくてウマい。
店の人の接客がとても良くて、気持ちいい。
何度も行ってしまいます。

鹿嶋に住んでいるときに
何度もここに書いたことですが
確かに見た目は「どこにでもあるジャスコ」であり「どこにでもあるサイゼリア」であり
「どこにでもあるTSUTAYA」だったりします。
ところが、毎日そこに行っているうちに
店員さんの顔を覚えたり、品揃えや味の違いに気づいたりして
その土地、その店なりの空気が流れていて
見た目は
「鹿児島とも青森とも見分けがつかない、記憶を喪失した街」
であっても、実はそこに差異があるのだ、と思うものです。

また、この間
大規模区画整理によって、街そのものが作り替えられたところに
フィールドワークに行ったときも
似たようなことを思いました。

そこは古くからの商店が駆逐され
パチンコ屋、チェーン店の飲み屋など
駅を出ただけでは「そこがどこなのか、全く分からない」という風情でした。
そういった
まちの喪失を嘆いている方に話を伺う、という機会でした。

その方は、ウマい中華屋があるから
ということで
悠々とわたしたちを案内してくれたので
「どこに連れて行ってくれるんだろう?」と思ったら
なんと餃子の王将だったのです。

まさに、ついさっきまで否定していた
ファスト風土文化の本丸とも言えます。

そして、ご飯を食べていたら
その人が開口一番
「いやー、これは江戸っ子の味だねーー!」
と感動して言ってるんですね。
そして、少し時間が経つと
区画整理で、駅前はこんなになっちゃって、もうチェーン店ばかりで全く違う場所に…」
とか嘆いているわけですね。
さすがに王将が単なるチェーン店であることを言えませんでした。

わたしはそれを馬鹿にしているわけでなくて
非常に面白く、興味深いなと思って
ずっとそのエピソードを覚えています。

なんだか、鹿島開発後の空間を「クソ真面目」な顔でフィールドワークして
郊外ファスト風土文化が…とか言ってる奴が
一方でロードサイドのとんかつ屋に入って
ウマい、ウマい!と感動し
ジャスコで大量に食材を買って東京に帰ってくる私の行動は
どこかでその王将の話とリンクしています。

人間はそれなりに「ガチ」であるが
人間はそれなりに「適当」なんでしょうな。