巨大な喪失 超える歩みを


高村薫
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巨大な喪失 超える歩みを
 東日本大震災は、死者・行方不明者の数がいまも日々更新されており、 発生から半月以上経(た)ってもなお、 最終的な人的被害の全体像は分かっていない。 その一方で、当初の混乱と興奮が去った被災地は、 非現実と見紛(みまが)う破壊と喪失の風景が、 しばしそのまま固化しつつあるかのようであり、 被災者はまだまだ今後の算段をめぐらすところまでいかない 空白のなかにいることだろう。

 被災地はいま、泥と重油と瓦礫(がれき)の悪臭に 満ち満ちているそうである。 避難所にたたずむ人びとの鼻腔(びこう)には、 それが故郷のいまの臭いである。 また眼(め)に映るのは、 片づけられないまま放置された自分たちの生活の残骸が、 泥とサビと油にまみれて風化してゆく姿である。 いましばらくはそうして過ぎてゆくほかない一日一日であれば、 むしろこころが空白のままでいるほうが、 まだ平静でいられるというものだろうか。

究極の非日常
 地上の営みをある日突然根こそぎにする地震や津波は、 誰にとってもつねに究極の非日常ではあるが、 それがもたらすさまざまな喪失は、 けっして元通りに回復されることがないまま、 時間とともに人々の心身に沈殿し、常態化してゆく。

 そうして、喪失のただなかにいる被災者も、 それを眺めているほかはない非被災者も、 冷えた鍋を前に放心するがごとくして、 震災前とは違ってしまった時間をともかく生きているし、 これからも生きてゆくのである。 無力感や悲嘆に沈んでいても、骸(むくろ)のようになっていても、 時間は生き残った人びとのものである。 仮に時間がほとんど止まっているように感じられるときはあっても、 心身はけっして死んではいない。 むしろ、生きるための力をいま一度蓄えんとして自発的に調整をしているのであり、 健康でさえあればいずれ身体が動きだすときは来る。 従っていまは、心身の求めるままに泣き、怒り、ぼんやりするときであろう。

不条理の中で
 さて、少し落ち着いてきた人は、 生活再建を考えて新たな不安や絶望に陥るときも来よう。 自宅を失った人、仕事をなくした人、住宅ローンを抱える人。 阪神大震災を振り返っても、被災の現実は厳しく、不条理である。 被災しなかった世帯との残酷な格差もある。 仮に経済的損失に限っても、自分の運命として ただ受け入れることができる人など稀(まれ)であり、 その無念には自然災害ゆえに恨む相手がいない苦しさも加わる。

 また、復興が始まれば、力強く前進する人がいる一方で、 取り残される人も必ず出てくるのであって、 阪神間でも、少なからぬ被災者たちが損失を回復することができないまま、 ある人は生きる気力を失い、ある人は底辺に埋没していった。 これが中長期の被災地の現実である。

 そして、実は被災しなかった人も、 多すぎる死と被災者の苦しみに囲まれて生きてきたのであり、 その過程でそれぞれにものを思い、人間と社会を見つめる眼を深めていったのだ。

変容する精神
 このように、巨大地震がもたらした決定的な破壊と喪失を、 同時代を生きる人間の共通の体験として捉えるとき、 被災者も非被災者も、地震の前と後では生き方が変わるのであって、 それはやがて時代精神の変容にもつながってゆくだろう。

 そう考えるなら、復興のかたちも自明のことではなく、 巨大な喪失を経験した住民自身の眼で、 未来に何が必要なのかを十分に見つめ直すことが先決になる。 一万人を超えた死者たちが、生き残った私たちに生き方を見つめ直せ、 新しい時代へ踏み出せと、呼びかけているように思う。