『月』について


『21世紀文学の創造9/ことばのたくらみ-実作集』の金井美恵子と松浦寿輝 03/02/07(金)
http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.26.html

●金井美恵子と松浦寿輝を読むためだけに、『21世紀文学の創造9/ことばのたくらみ-実作集』を購入する。

●金井美恵子のごく短い短編「『月』について」は、文字通り、自作の『月』という短編を読み返すことによって成立している。実際には、『月』だけでなく、『単語集』のあたりの短編(特に『調理場芝居』)をもとに、自分が過去につくった音源を使ってリミックスしたような小説になっている。(しかし「リミックス」という言葉は一時あまりに多くの人が便利に使いすぎたので、すっかり色あせてしまったように思う。)こう書くと、ああ、また例の「自己言及」的な「小説についての小説」ね、と理解する人がいるだろうし、実際に自作の引用もあれば、金井氏の小説に繰り返し出てくる舞台やエピソードが反復されてもいるのだが、金井氏の小説で繰り返される「自己反復」は、合わせ鏡のような自己言及性ではなく、むしろ感覚的な入力の過剰によって、対象の同一性があやしくなるというよう感覚に基づいているように感じる。つまり、あまりに鋭敏な感覚が、同一であるはずの対象のちょっとした「うつろい」を的確に捉えてしまうことで、今見ている「月」と一瞬前の「月」とが「同じ月」であることが揺らいでしまうのだ。そこでは、感覚される数だけ無数の「月」が出現してしまい、見上げるたびにあらたな「月」を生成してしまう、というような、半ば病的に鋭い感覚によって、その感覚をある程度「安定」させるために、同一の物語、同一の対象の果てしない反復が要請されるわけだと思う。(同一の「物」が複数の「像」へと分離してしまうこと、そしてそれを安定させるために「物語」が要請されること、という感覚は、例えば佐藤友哉の小説からも強く感じられる。)

●しかし勿論変化はある。『月』や『調理場芝居』などの頃の金井氏の小説の話者は、感覚的な言い方になってしまうが、「歩く」という身体的なリズムによって記述のリズムがつくられ、歩く速度で空間を移動するリズムが、過去のいつのものとも知れない記憶や、あるいは妄想を呼び出し、歩くリズムによってそれらが混じり合う感じなのだが、『噂の娘』の頃からと言うか、『柔らかい土をふんで、』以降と言うべきか、その頃から、話者の視点はまるで映画のカメラのように、つまり身体的な制約を超えて自由に動くようになっていると思う。(勿論、映画のカメラは実際にはそう簡単に「自由」には動かず、移動のためのレールを敷いたり、大がかりなクレーンを操作したりすることで、あたかも「自由」であるかのように動くわけだが。)「『月』について」という小説は、空間的な移動の反復が説話的な展開の代行となって成立しているような小説で、つまり、自宅からまゆみの生け垣のある地を抜けて、商店街を通って電車通りと呼ばれている通りまでという地域を、流麗な動きをみせるカメラが大がかりな移動撮影によって何度か往復し、その往復運動のなかに、様々な時間の記憶の細部が泡立つように浮かび上がり、混じり込む、というつくりになっていると思う。そしてその水平方向へのカメラの移動(横移動)を断ち切るような、ある垂直的な出来事として、「月」をめぐる記憶が『月』という自作の小説から引用される。しかし、その垂直的な「月」の体験は、幾重にも折り重なる記憶の層のなかから屹立する「今・ここ」という現在の特権性を保証するものではない。「『月』について」という小説の最も中核となるその部分は、すでに書かれた『月』という小説からの引用であり、そのオリジナルである『月』ですら、その時にそれを「見た」のではなく、「すべてを唐突ななまなましさで思い出したのだ」という体験についてのものである。(つまりこの「『月』について」という小説は、『月』の時に「思い出した」ことを再び「思い出して」いるわけなのだ。)特権的な体験は、今・ここで起きているのではなく、いつでもなく、どこでもない場所で起こったであろう出来事を思い出すという体験(反復)なのであり、さらに、「思い出したこと」を思い出すという、さらなる反復なのだ。『「思い出した」ことを思い出した』ことを思い出すこと、が、つまりは、金井氏にとって、読むということであり、読み返すということであり、書くということであり、書き続けるということであり、つまり「生きる」ということである。「新しい何事かの出来事」とは恐らく、この「思い出すこと」と「思い出すこと」の間に起こるのであって、それを「ここ」だと指し示すことは出来ないのではないか。「思い出すこと」は決して自己言及的なループの内部にあることではなく、その都度新しい「何事か」であるはずなのだ。

●《いつかこの瞬間、今こうして見ている月と、この道と、風と、こうして今わたしの感じていることすべての感覚を思い出すことがあるだろうか。この今の瞬間から、瞬間ごとに遠ざかっているのだという思いがわたしを苦しめた。時間というものが止まることなく流れつづけ、すべてのことを取り返しようもなく過去のものにしてしまうという思いが、歩く葦の一歩一歩を重くした。それでも、わたしは決してこの瞬間のすべてを忘れないでおこうと願った。歩いてきた道をふり返って、店の戸口ごとに翻るカーテンのふくらみを見つめ、夏の午後のプールの帰りのけだるい路地の夢を反芻し、その大半のイメージをすでに忘れかけていることに気づき、あわててもう一度長い商店街の人気のない通りのすべてを記憶にとどめようとして見つめるが、その間に、なめらかな黄色の丸い月は家並みの上で位置をわずかずつ変えててしまいそうだし、霞綱のような薄紫に光っていた雲は、ずっと遠くのほうへ流れて、灰色がかった靄のようにかすんでしまっている。》(「『月』について」に引用されている、『月』の部分。) 異様なまでに微細で途切れなく続く金井氏の小説の記述を追ってゆく時に読者が感じているのは、まさに上記のような感覚ではないだろうか。ひとつひとつの描写を追い、言葉から言葉へと移動してゆく時、「この今の瞬間から、瞬間ごとに遠ざかっているのだ」という感覚に包まれながらも、描写のひとつひとつを味わいつくし、「決してこの瞬間のすべてを忘れないでおこうと願」いつつ、次の言葉へと移ってゆくのだが、ふと「ふり返って」みると「その大半のイメージをすでに忘れかけていることに気づき」、前のページや行に戻って確認しようとするのだが、その時には、ある持続によって成立していた感覚は巣でに遠のき、「灰色がかった靄のようにかすんでしまってい」て、捉え返すことが出来ない。そしてある時ふと、それら「すべてを唐突ななまなましさで思い出」すのだ。