三木杉:赤壁の戦いの「勝者」


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「三木杉:赤壁の戦いの『勝者』」(『雑壁』2008年11月発行)

はじめに
 建安一三年(二〇八年)に起こった赤壁の戦いは曹操の中国統一の動きに待ったをかけ、中国を魏、呉、蜀の三国に分割するきっかけを与えた戦いです。つまり、実質的に三国時代を成立させた戦いであるともいえます。そのため、早くから多くの注目を受け、『三国志演義』をはじめとして多くの小説、演劇の題材となってきました。しかし、陳寿の著した正史の『三国志』ではそれほど大きな扱いをされておらず、記述量が最も少ない戦いのひとつになっています。今回は赤壁の戦いが孫権陣営においてどのようなものだったのかを正史『三国志』に基づいて分析し、さらに、赤壁の戦いの後に起こった曹操軍の殿軍と赤壁で勝利した周瑜軍の戦いである南郡の戦いについて考察し、赤壁の戦いが孫権陣営に何をもたらしたのか、また赤壁の戦いで得たものを最もうまく活用した者、いわば勝者は誰なのかを考えてみたいと思います。
一. 赤壁の戦い 概略
 建安一三年、河北を支配下に納めた曹操は南征を開始し、荊州に侵攻します。支配者である荊州刺史の劉表は病死し、あとを継いだ次男の劉琮は曹操に降服し、荊州はほぼ無血開城されます。その中、降服を知らされなかった劉備は彼を慕う十万の民衆や官吏と共に南に逃走し、再起を図りますが、曹操は数千の騎兵を率いて急追し、劉備軍を大破します。進退窮まった劉備ですが、劉表の長男で江夏太守となっていた劉琦が一万の兵で劉備軍を夏口に迎え入れ、虎口を脱します。その後、劉表の弔問という名目で情勢の偵察に来ていた孫権陣営の魯粛が劉備に孫権との連合を提案し、諸葛亮が孫権の許に出向いて同盟を締結します。そして孫権軍の大都督(総司令官)である周瑜が三万の精鋭部隊を率いて長江を下る曹操軍と交戦し、黄蓋が投降すると見せかけて火計を行うことによって曹操軍は撤退しました。

 その後、周瑜は曹操軍を追撃して殿軍の曹仁と激しい戦いを繰り広げた後に荊州の長江沿岸部を手に入れます。また、劉備は周瑜から離れて長江以南の荊州を制圧し、拠って起つべき地盤を築き上げました。さらに、孫権は十万の軍を率いて長江下流に位置する合肥を攻撃しますが、こちらは百日余りに渡る包囲の末に失敗し、領土拡大は停止します。

 しかし、ここまで見てみるといくつか疑問が生じます。

(1)周瑜軍の規模が孫権陣営の総兵力を考えるとあまりにも小さいのではないか。
(2)荊州侵攻は九月であり、合肥の包囲は百余日かかったことを考えると赤壁の戦いはかなり短い期間で終結したのではないか。
(3)突如として現れる孫権率いる十万もの大軍はどこにいたのか。

 孫権陣営が曹操との対決に全力を投入できなかったのは、孫権陣営が長期的な戦略に則って行動していたためであり、具体的には、長江沿岸地域の制圧と、南方地域を中心とした不服従勢力の鎮圧と領内統治の安定化の二つだったと思われます。そのため、赤壁の戦いは孫権陣営の先鋒である周瑜が曹操軍と戦った、いわば前哨戦であるということができると思います。赤壁の戦いの意義とその影響を考えるには、この孫権陣営の長期戦略を考慮に入れ、その中で赤壁の戦いを捉えなおす必要があります。
二. 赤壁の戦いにおける孫権軍の展開
 赤壁の戦いは、孫権にとって自分の勢力の自立を賭けたものであったことは明白ですが、当時の孫権陣営の軍事的配置を見ると、赤壁、つまり曹操軍本体にのみ集中してはいませんでした。曹操軍と直接戦ったのは周瑜率いる精鋭三万人のみであり、これとは別に孫権自身が軍勢を集めており、最終的には十万の大軍になっています。さらに、孫権の勢力圏の中の山岳地帯で山越の討伐を行っている軍もありました。これら三つの軍の動きを見ながら孫権軍の戦略を考察したいと思います。
(一)周瑜軍の奮戦
 孫権は建安一三年の前半に荊州に出兵して江夏郡を攻め、太守の黄祖を斬り、多数の民衆、財宝を手に入れました。荊州を攻め取り、長江流域を支配することは孫策以来の呉の基本戦略となっており、その後孫権は呉に帰還せずに柴桑に駐屯し、荊州の情勢を窺っていました。曹操軍が荊州を制圧して孫権陣営に降服勧告をしたとき、周瑜は柴桑にはおらず、鄱陽へ行っており、降服論が大勢を占める中で抗戦を主張する魯粛が同じく曹操に降るのを良しとしない孫権に進言して呼び戻されました。そこで周瑜は曹操軍の内実が喧伝されている八十万などではなく、荊州平定で疲れ、さらに江南地方の気候に慣れていない十数万人と戦意の乏しい荊州の降服兵七、八万人に過ぎず、十分に勝算があると述べ、精鋭の兵三万人を率いることを求めました。このことから、元々この三万の軍は孫権の手元にあったことが分かり、またその後孫権が軍事行動を起こすのに少し間があるため、呉軍全体の中でも精鋭の部隊だった可能性があります。

 周瑜はこの軍を率いて曹操軍と対戦し、結局増援もなしに曹操軍を火計で破りましたが、孫権自身も新たに軍を編成しており、周瑜の軍は孫権軍全体からいうと先鋒の役割であったと思われます。これが疑問(1)への解答になると思います。つまり、孫権陣営にとっては周瑜軍はあくまでも先鋒であり、全軍の一部でしかなく、勝敗を決するのは孫権の率いる十万人の本隊が到着してからのつもりだったのではないでしょうか。

 曹操軍にとっては自軍の数分の一程度の先鋒でも突破できず、さらに疫病が蔓延し、食料も不足し始める中で敵の後続部隊を迎えることはかなりの脅威であり、そのことが勝負を急ぎ、黄蓋の偽装投降を簡単に信用し、また火計を受け敗北を悟るやすぐさま撤退した理由だと思います。また、曹操軍が駐屯していた烏林の東の夏口には曹操軍に追われた劉備がいました。劉備の下には荊州刺史の劉表の遺児である劉琦が率いる軍一万人がおり、敗走する曹操軍の退路を断つことのできる可能性があり、これも曹操が撤退を急いだ理由だと考えられます。事実、曹操が撤退した後に劉備軍が道を焼いて封鎖しようとした記述があります。そのため、疑問(2)で挙げたように結果的には赤壁の戦いはかなり短い期間のうちに終結したといえます。

 三万の兵を率いる周瑜にとっては一万以上の劉備軍は大きな援軍になると思われますが、周瑜は劉備を黙殺し、あくまで自軍のみで曹操軍と戦う姿勢を崩しませんでした。これは後の南郡の戦いやそれ以後でも変わらず、劉備が孫権の許へ同盟締結の交渉に赴いた際に劉備を捕らえ、その軍を奪い関羽、張飛を自分の指揮下に置くと進言したことから、劉備を孫権の同盟者としてではなく、配下として孫権陣営に組み入れる目的があったためと思われます。
(二)孫権軍の北上
 孫権は周瑜に軍を授けた後に残りの兵を集めて十万人の大軍を編成しますが、結局間に合わなかったのか赤壁の戦いには参加しませんでした。このことから、疑問(3)の答えは赤壁で周瑜軍が曹操軍と対峙しているうちに急遽召集したためであるといえます。孫権軍は周瑜が勝利した後長江を下り、北岸のやや内陸に位置する揚州州都の合肥を包囲し、張昭に軍を率いてさらに北上させ、淮水沿岸の当塗を攻撃させました。曹操軍の主力が荊州に終結しており、長江下流域が軍事的に真空状態であったこともありますが、合肥を占拠することは長江を輸送路として安全に利用するためには不可欠であり、また当塗を足がかりに淮水以南を勢力圏に組み込むことを目論んでいたと考えられます。

 赤壁の戦い当時、合肥の城主だった揚州刺史の劉馥はすでに病死していましたが、彼の施した行政は万全であり、篭城のために城壁を厚くし、監視用の松明に使う魚油や城壁を雨から守る莚を大量に蓄えており、官民一丸となって孫権軍を防ぎ、監視し続け、包囲が百余日に及びました。そのとき、合肥に忍び込もうとした使者を捕らえたところ、曹操が張憙という将軍に四万の援軍を率いさせて合肥に向かわせたという手紙を持っており、また千人ばかりの騎兵も接近してきたため、孫権軍は諦めて退却しました。実際には、張憙が率いていた軍には病人が多く、合肥にやって来たのは孫権軍が確認した若干の騎兵のみだったのですが、楊州の別駕(州の副長官)の蒋済が援軍の大軍が接近したという旨を記した手紙を三人の使者に持たせて合肥に向かわせ、その内二人が孫権軍に捕まり、一人が城内に入ったため、城の士気が上昇し、孫権も撤退を決意したというのが真相でした。

 張昭軍も当塗を陥落できずに撤退し、最終的に長江北岸での領土拡大は失敗しました。これ以後孫権は執拗に合肥を狙い続け、魏と呉の主要な交戦地域となりますが、呉が合肥を奪うことはついにありませんでした。
(三)南方地域の鎮圧作戦
 赤壁の戦いが起こるより以前から会稽郡や鄱陽郡、豫章郡など、孫権の勢力圏の南部では反乱を起こす山越や豪族の討伐が続けられていました。長江以北で飢饉や洪水などの自然災害や戦乱の拡大などのため、多くの人々が江南地方に移住してきました。彼らは各地で土地を開拓して住み着いたり、大規模な土地を持つ豪族の小作人になったり、異民族の山越の中に入っていくなどして生計を立てていましたが、江南地方の豪族は自立性が非常に強く、各地に割拠したり、また宗部と呼ばれる宗教的共同体を形成するなどして州や郡といった公権力に対抗していました。その好例として、豫章郡が挙げられます。豫章郡の太守は、後に魏王朝で司徒(法律を司る大臣。位が最も高い三公の一人)になった華歆であり、彼は中原から避難してきた数百人の士大夫を抱えていましたが、彼の統治が及んでいるのは郡役所と首邑の周辺のみであり、郡内には大規模な宗部や豪族が割拠しており、孫策が侵攻してきたときに防衛体制が整わず、戦わずして開城しました。山越の略奪からの防衛は平地の農耕民を統治基盤とする、呉をはじめとした漢民族政権にとっては、放置すると民衆の多くが逃散し、国家基盤を危うくしかねない重要な問題でした。

 孫策や孫権、その後の呉王朝は豪族や山越、避難民も含んだ不服従民を従わせて戸籍に登録し、実質的な統治を磐石のものにしようとし、これらの諸勢力のうち反抗するものを武力で制圧していきました。呉の統治は兵役に耐えうるものを軍に編入し、それ以外のものを移住させて土地開拓の労働力にするという強権的なものであったため、多くの豪族、山越、不服住民が反抗し、幾度となく反乱が起こっています。こういった反乱に対処するために多くの軍事力が割かれ、魏などの外敵に対する軍事活動にも支障が出ていました。

 赤壁の戦いが起きたときにも南方での不服従勢力の制圧行動は続いていました。この軍事活動を担当していたのは賀斉という武将でした。彼はその三年前の建安十年(二〇五年)に会稽南部都尉(会稽郡の南部の軍事を担当する)からより広い範囲を担当する平東校尉に昇進し、会稽郡南部から転じて西の上饒の討伐に向かい、その地を分割して建平県を立てました。赤壁の戦いの起こった建安十三年には威武中郎将に昇進し、北上して丹陽、黟、歙の討伐に向かいました。一旦は反抗勢力を降服させたものの、またすぐに反乱が発生しました。このときの反乱は六万戸が参加する大規模なもので、孫権も蒋欽の率いる一万の援軍を送っています。賀斉と蒋欽は反乱軍の立て篭もる山を包囲し、夜陰に乗じて断崖から兵を送り込み、大声を上げたり鳴り物を打ち鳴らして反乱軍を狼狽させ、その隙に攻撃して勝利しました。反乱の鎮圧後、賀斉は孫権に上表して黟県をいくつかの県に分割して新都郡を立てました。つまり、黟県はもともと一つの郡ほどの広さと人口を持っており、これまでは孫権政権が把握、統治しきれていなかったことが分かります。賀斉はこの後も東奔西走して呉領内の反乱討伐に活躍することになります。

 以上のことから、曹操軍が荊州に侵攻してきたとき、孫権陣営は総力を挙げてこれに対応しようとしたわけではなく、長江流域の支配と、不服従民の把握と直接統制による江南地方の安定化という長期的戦略に沿って行動していたことが分かります。孫権陣営が曹操軍の接近に関してあれほど狼狽したのはその規模もありますが、荊州をほぼ無血で占領し、逃亡した劉備をいち早く追撃して一気に呉への攻撃態勢を整え、孫権陣営に対応する暇を与えなかったその早さだったのではないでしょうか。
三. 南郡の戦いと劉備の自立
 赤壁の戦いで勝利を収めたとはいえ、孫権陣営は寸土も土地を得ておらず、支配領域を拡大するのは西に逃げる曹操軍を追う中で行われました。曹操軍の赤壁の戦いでの敗戦により、占領された荊州は動揺しており、周瑜軍の荊州制圧は容易に思われました。しかし、曹操は長江中流域の主要都市である江陵に一族であり、重臣でもある曹仁を荊州方面の軍事的指揮権を持つ行征南将軍に任命して留め、名将の徐晃をはじめとした多くの将兵で防衛させ、荊州の州都である襄陽には勇猛で鳴らす楽進を配置し、周瑜軍の追撃を防ごうとしました。

 周瑜軍は最初曹仁軍を完全に包囲するために甘寧が数百人を率いて先行し、江陵の上流に位置する夷陵を占領し、劉備が張飛と千人の兵を周瑜の指揮下に置く代わりに二千の軍を借りて江陵の北を封鎖しました。これに対して曹仁は歩騎五,六千を夷陵に派遣して甘寧を包囲し、また南郡の東隣にある汝南郡の太守である李通が劉備軍の関羽が率いる部隊を攻撃し、包囲陣を破って北方への退路を確保しました。しかし、甘寧を包囲した部隊は全軍の半数を率いて来援した周瑜に破られて半数の兵を失い、また江陵に敗走する途中で呂蒙の仕掛けた障害物のために馬を捨て、それを周瑜軍に回収されてしまい、また包囲を突破して曹仁と合流した李通もまもなく病死してしまい、情勢は周瑜軍に有利となります。

 周瑜軍は長江の南岸、江陵の対岸に陣を敷いていたのですが、北岸に渡河を行い、江陵に攻撃を開始します。そのとき、曹仁の副将である牛金が城の包囲を防ぐためか決死の兵三百人を率いて周瑜軍の先鋒数千に突撃しました。この部隊はかなりの奮闘をしますが、数の差から包囲され、危機に陥ります。ところが、曹仁が勇士数十騎を率いて牛金隊を救出します。曹仁の武勇はすばらしく、一旦退却した後に取り残された兵たちを引き返して救い出しました。そのとき、あえて曹仁を押し留めようとする兵はおらず、曹仁は「天人」と称えられます。

その後、周瑜軍と曹仁軍は正面から激突し、激しい戦いが一年以上にわたって続けられました。多数の戦死者が発生し、周瑜自身も矢を受けて負傷するほどでしたが、ついに曹仁は城を捨てて北に撤退します。しかし、周瑜軍の損害も大きく、曹仁を追うことはできず、襄陽以北は曹操側が保持し続けます。

 また、戦いの途中で劉備は長江以南の荊州を鎮撫するという名目で曹操の任命した諸太守を撃破し、自らの実質的な領土としました。その後南郡の対岸の油公江を公安と改称してそこに本拠を定めると、劉表の下にいた多くの官吏や民衆が集まり、また長江下流の廬江郡で曹操に反乱を起こしていた豪族の雷緒が討伐軍に追われて三万もの配下とともに身を寄せたため、周瑜や孫権にも容易に手を出せない強力な独立勢力となりました。
おわりに
 赤壁の戦いと南郡の戦いの結果、荊州は北に襄陽を中心とした曹操、中央の長江流域に孫権、南に長江南岸の公安を本拠地とし、そこを北限とした劉備と、三分割されました。しかし、曹操、劉備の二勢力にはさまれた状態では孫権側は勢力圏を維持することが難しく、事実孫権は長江沿いに西に向かい益州を攻撃しようとしましたが、同じく益州進出を狙う劉備に阻止されてしまいます。最終的に孫権は劉備に荊州での領土を割譲し、合肥方面に戦力を増強することになります。このことから、赤壁の戦いによって最も利益を得た者、つまり、勝者といえる者は実際に戦闘で勝利した孫権陣営でなく、全く地盤を持たない状態から長江以南の荊州という大きな領域を支配することになった劉備ではないでしょうか。