ワジマヌリ:俺のヒゲを褒めろ 〜三国時代「ヒゲ」模様〜


俺のヒゲを褒めろ 〜三国時代「ヒゲ」模様〜

火口豚炎上卒業記念論集 雑豚』2009年5月発行、掲載(一部加筆修正)

0.はじめに

 唐突だが、皆さんは映画『レッドクリフ』をご覧になっただろうか? 時代モノ映画だけに、相変わらずヒゲの旦那ばっかりで、と思いきや、主役の金城孔明にはヒゲがあるにもかかわらず、周瑜や趙雲はヒゲなしの役柄だった。
 ひょっとすると、「三国志は漢(おとこ)の世界! ヒゲなしの武将が一人でもいるなんて許せない! ヒゲ、もっとヒゲを!」と主張する人もいるかもしれない。まあ、多くの人が見る映画なので、そういう特殊な要望はとりあえず放置しておこう。いずれにせよ、現代からみればかなりの「ヒゲ濃度」なのは間違いない。ちょっと考えてみてほしい、渋谷や新宿の雑踏で、どこもかしこもヒゲの男ばかりという光景を。まるで夜の新宿二ちょ・・・失礼、相当に暑苦しい光景である。
 というわけで今回は、そんな三国時代のヒゲ事情についてまとめてみた。

1.わかる使える「ヒゲ」用語

 いわゆる「ヒゲ」を指す漢字は何種類かある。しかし、現代でも使われるのは「」、「」、「」の三種類くらいだろう。これらの漢字はいずれもヒゲを表すのだが、それぞれの漢字が指し示す対象は、本来微妙に違っていた。
 まず「鬚」である。「鬚」という漢字は、もともと「須」という字であった。後漢の許慎が編纂した漢字字典『説文解字』では、「須」は「面毛也」とある。要するに顔の表面の毛全般のことだ。ただし、実は「鬚」「髯」「髭」はどれも俗字で、それぞれの正しい字体の部首はいずれも「須」だから、「須」こそがヒゲを代表する漢字だともいえる。また、同じく後漢の劉煕が編纂した辞典『釋名』には「頤下曰鬚」とあり、これによるなら「鬚」は「頤」(あご、おとがい)の下、すなわち「あごひげ」となる。(清代に作られた『説文解字注』では、これに従って「面毛也」を「頤下毛也」に改めている。)
 ついで「髯」はどうか。美「髯」公こと関羽がいるだけに、この漢字は三国志ファンにはなじみかもしれない。関羽といえば長いあごひげをナデナデしているイメージがすっかり定着しているが、『説文解字』では「頬須也」、『釋名』では「在頬耳旁曰髯」(ほお・耳のそばにあるのが髯)とあるように、本来は「ほおひげ」を指す。とりあえず関羽については後述しよう。
 最後の「髭」だが、『説文解字』だと「口上毛也」とあり、「くちひげ」を指す。気になるのが『釋名』の記述で、「為姿容之美也」とある。これは決して「ああ、なんとお美しい○×さまのお髭・・・!」という意味ではないので注意したい(苦笑)「姿容之美」は容姿のみごとさ、というくらいに取っておくべきだろう。

 ちなみに、現代中国語でヒゲは胡子(鬍子、フーヅ)というが、「胡」とはもともとあご下にたれた肉のことを指すから、やはり本来は「あごひげ」の意味であったのだろう。もひとつちなみに言えば、かつて当会の会員たちは「鬍鬚張魯肉飯」(ひげちょうるうろうはん。「ちょうろにくめし」ではない。念の為)という台湾版吉野家のような中華料理チェーン店を行きつけにしていた。(そんなことはどうでもいいぞ)
 だいたいこんなところが古代中国におけるヒゲ用語の基礎知識である。単漢字以外にも龍鬚・虯髯などヒゲを形容する熟語は多々あるけれど、いちいち検証しているとややこしいため、ここでは触れない。(誰だ、調べるのが面倒だっただけなんていうのは)

2.関羽のヒゲは「髯」か「鬚」か?

 さんざん古代中国におけるヒゲの分類を力説してきて何なのだが、実をいうと、正史『三国志』においてヒゲの種類はさほど細かく分類されていない。当たり前といえば当たり前ながら、人相見でもない限り、ヒゲの部位をいちいち細かく分類して述べる必要はないからだろう。
 関羽といえば「美髯公」。さきのヒゲ分類にそのまま従うなら、関羽は両頬のヒゲだけが長くてつやつや美しい、とか、冬場は顔の両側にヒゲ袋を二つぶらさげていた、とかいう奇怪な風貌だったことになるが、そういうわけではない。関羽の「美髯」というイメージの根拠になったエピソードが蜀書関羽伝にある。すでにご存知の人も多いかもしれないながら、いま一度紹介してみよう。

馬超が劉備に帰順してきたことを知った関羽は、諸葛亮に手紙を出して馬超がどのような人物か尋ねた。それに対して諸葛亮は、

「孟起どのは文武を兼ね備え、武勇は人並みはずれています。ひと時代の豪傑ですが、黥布・彭越のともがらであって、益徳どのと競い合うのがいいところでしょう。『髯どの』の群を抜いた優れっぷりにはまだまだ及ばないでしょうね。」

と書き送った。この手紙を受け取った関羽は、大喜びして手紙を来客に見せびらかしたという。・・・なんとも単純というか、可愛げがあるというか(汗)

 少々脱線となるが、返事を送った諸葛亮も諸葛亮でなかなかのものだ。負けず嫌いなあまり、関羽がこっそり手紙を送ってきたことを見抜き、わざとらしく急に「ヒゲ」などと呼んで親密感&信頼度をアピールするのだから。『an・an』とか『CanCam』とかで「漢(おとこ)の子の心をつかむ乱世のメールテク」なんてタイトルで特集・・・されないよね、ごめんなさい。もっとも、ビジネス書なら本気で一冊作りかねないのが怖いところではある。

 本題から大分それてしまった。正史本文には、諸葛亮が関羽を「髯」と呼んだのは関羽が「美鬚髯」だったからだ、とある。つまり関羽のヒゲは、「鬚」(あごひげ)と「髯」(ほおひげ)であって、少なくとも、先にあげたような両頬のヒゲだけがやたら長い珍妙な風貌ではなかったわけだ。関羽がとくにほおひげにこだわりを持っていて、日夜鏡を見ては「斜め45度からみるわしの横ヒゲはすばらしい」などと悦にいっていた可能性も否定はできないが。
 ところでこの「美鬚髯」という言葉、もしかすると当時はなかなかの褒め言葉であったかもしれない。なぜかといえば、『史記』『漢書』において、漢の高祖こと劉邦は、「美須髯」であったとされているのだ。顔の一部分にせよ、漢の高祖と同じように言われたなら、やはり悪い気分はしなかったに違いない。ちなみに、『蒼天航路』で大分イメージが変わった人も多そうな程─横山光輝『三国志』のイメージからすると意外ながら太史慈、この二人も「美鬚髯」であったと記されている。

3.孫権の「紫髯」と「虎鬚」

 さて、関羽の「美髯」に次いで有名な「ヒゲ」といったら、孫権の「紫髯」ではないだろうか。(演義で、呂蒙にとりついた関羽の亡霊にも「紫髯の鼠輩」呼ばわりされていることだし)。だが、孫権のヒゲに関する記述は正史本文にはない。

 孫権の「紫髯」に関する記述は、呉書呉主伝注に引く『献帝春秋』にある。孫権が合肥を攻めた際、張遼の急襲を受けて命からがら脱出する、ということがあった。戦いの後、張遼は投降兵に「紫髯の将軍で胴長短足、騎射の上手いやつがいたが、あれは誰だ」と尋ね、実はそれこそ孫権だったと知って悔しがった、という。
 この「紫髯」、のちには胡人の描写としてよく使われ、どうやら赤ヒゲのことを指したらしい。李白の詩にも「紫髯緑眼」という句がある。

 孫権のヒゲについては、正史の注にもう一つだけ記述がある。こちらは呉書朱桓伝注に引く『呉録』で、面白い(というかヘンな)エピソードなので紹介してみたい。
 朱桓はプライドが高く、軍中でも自分の思い通りにならないとすぐ激昂するタイプだった。あるとき、朱桓は同僚の胡綜の作戦が気に食わないといって彼を殺そうとした。結局、胡綜は朱桓の配下のはからいで事なきを得たものの、朱桓は止めようとした自分の配下二人を斬り殺した上、発狂したと偽って建業に戻ってしまった。(もとからキチ○イだったんじゃ・・・と、思ってしまうが、部下には好かれる人物だったらしい)
 数ヵ月後、孫権の慰留により朱桓は前線に戻ることとなったのだが、送別の宴席で彼は孫権に一つの願い事を申し出た。いわく、遠くへ出征するので、悔いのないように孫権のヒゲを撫でさせてほしい、という。この珍妙な願いに孫権は快く応じ、わざわざ机から身を乗り出して朱桓にヒゲをさわらせてやった。ヒゲを撫で終わると、朱桓はこういった。「臣は今日『虎鬚』をなでることができました」

 孫権の「虎鬚」(とらひげ)に引っ掛けて、孫権の威厳を「虎」になぞらえているわけだが、いい年こいたオッサン二人がヒゲをナデナデしあっている姿はかなり異様である。(この時どっちも五十代。)というか少し気持ち悪い(苦笑)
 「虎鬚」は演義における張飛の容貌描写でもあるから、イメージがつきやすいだろう。要するに孫権は、茶色がかったヒゲがほおからあごにかけてびっしり生えている、というかなり豪傑然とした風貌だったようだ。面白いことに、やはり李白の詩に「紫髯如戟」という句があって、ヒゲが張り出して猛々しい様を表すのだという。

 関羽にしてもそうだが、「幅広い見事なヒゲ」ということから、本来はほおひげを表す「髯」で彼らのヒゲを代表して呼んだのかもしれない。「髯」は先に挙げた漢代の辞典『釋名』にも「随口動揺髯髯然也」(口の動きに従ってゆらゆら動く)とあり、ヒゲの中でも特徴が表れやすい部分だったようだ。よって、ほおまで広がる立派なヒゲを、とくに目立つ「髯」の部分で代表して呼ぶようになった可能性はある。

4.劉備のひそかなコンプレックス

 ここまで「ヒゲ」についてばかり触れてきたから、「ヒゲがない」人物についても触れておくべきだろう。
 かなり意外なのだが、劉備にはヒゲがなかったという。劉備といえば、おなじみの「だらんと手を下げれば膝につき、振り返ると自分の耳が見える」という記述が有名である。しかし、実はこれとは別に、ヒゲがなかった、とする記述もあるのだ。蜀書周羣伝の附伝として(この時点ですでにマイナー人物だから困ってしまうが(汗)、ひとまず気にしないでほしい)、張裕という天文占いの得意な人物が紹介されている。

劉備が始めて益州に入り、劉璋に会見したときのこと。劉備は劉璋のそばにいた張裕のヒゲが濃いのを見ると、彼をからかおうとこんな話をした。

「昔わしが涿県にいたころは、『毛』という姓がとりわけ多くてな。東西南北みな『毛』さんばかりだったのだよ。それで県令がこういった。『毛がいっぱい涿をとりまいて住んでいるものだ』とな」。

「涿」は啄(くち)と同音だから、劉備は「お前の口の周りは毛だらけだな」と言ったわけである。
これに対して張裕はこんな話をした。

「昔、上党の潞県の県長から涿県の県令となり、辞職して隠退した者がいました。ある人が彼に手紙を送ろうとしましたが、潞と宛名書きすれば涿(の県令だったこと)が示せないし、涿と宛名書きすれば潞(の県長だったこと)が示せません。そこで宛名には『潞涿君』と書いたのです」。

「潞」は露(あらわ)と音が同じである。つまり「潞涿君」とは「啄(くち)が露わな君」となる。張裕は「あなたは口の周りがさみしいですな」とやり返したわけだ。
劉備はよほどこのことを根に持ったらしく、のちに劉備の破滅を予言した廉で張裕を処刑している。

 当時、ヒゲのないことはマイナスイメージだったのだろうか。中国の小説家であり歴史研究にも携わった沈従文は、必ずしもそうではなかったと述べている。彼によれば、唐代以前の石刻・壁画など画像資料を見てみると、ヒゲのある人物とヒゲのない人物が入り混じっており、必ずしも社会の上層部の人々がヒゲを蓄えていたわけではないという。(「従文物来談談古人的鬍子問題」『光明日報』1961年10月21日・24日掲載)
 おそらく、見事なヒゲを持つことは「立派な風貌」とみなされることではあったが、ヒゲを生やすかどうかはあくまで個人の趣味の問題だったのだろう。したがって、劉備が怒ったのは、単にヒゲがないことにコンプレックスをもっていたからというより、自身を少なからず劉邦になぞらえていたにもかかわらず、劉邦のように立派なヒゲを蓄えた風貌(美須髯)でないことを彼が不満に思っていたからなのかもしれない。そう考えていくと、若干解釈の変わってくるエピソードがある。

 劉備と曹操が漢中で対陣した際、劉備が劉封を出陣させて戦いを挑ませた。すると曹操は「履屋のせがれめ! 養子なぞをつかってわしを迎え撃つのか。わしの『黄鬚』を呼ぶから待っておれ、追い払ってやる」と劉備親子を罵倒したという。(魏書任城威王彰伝注に引く『魏略』より)
 ここでいう「黄鬚」とは「黄鬚児」こと曹彰のことだ。だが、あえて曹操が「黄鬚」という呼び名を使ったのは、もしかするとヒゲのない劉備を挑発するためだったのかもしれない。劉備以上に自分の容貌にコンプレックスを持っていた曹操のこと、人の容姿をバカにするのはさぞかし気持ちよかっただろう(笑)

5.おわりに

 以上、三国時代の「ヒゲ」にまつわるエピソードを中心にまとめてみた。いかがだっただろうか。現代でのヒゲのイメージは、どこか威厳とか厳格さとかを象徴するような所がある。(無精ひげやチョビひげはまた別として)。しかし、これらのエピソードには、むしろそういった威厳や厳格さが感じられないところが面白い。当時の人々にとって「ヒゲ」は、当然のもの、ではないけれど身近なもの、という位置づけだったのではないだろうか。

 つまり結論はこうだ、
 現代人はもっとヒゲを生やすべきである。無精ヒゲ万歳。



*おことわり
こんな原稿を書いておいて今更ながら、筆者に何か特殊な嗜好があるわけじゃありません。あしからず。


文責 ワジマヌリ