呉の文官、歴史家。正史では司馬昭の諱を避けて韋曜とされる。
後述する『呉書』の作者であるほか、春秋時代の史書『国語』に注釈を加えたことでも知られる。
当初は孫和に仕え、命を受けて博打に興じる部下を諌めるべく『博奕論』を書き上げる。
孫亮の代になると呉の歴史書である『呉書』の編纂を始めている。
孫皓からも当初は気に入られていたが、剛直で正論を曲げない性格が合わず対立するようになり、
例えば『呉書』に孫和の本紀を立てるよう命じられるも皇帝ではないため却下したことが知られている。
その後下戸にもかかわらず無理矢理酒を飲まされ、態度が反抗的だったとされ投獄・処刑された。
尚、彼の記した『呉書』は陳寿が正史『三国志』の呉書を書く際元ネタにしたとされている。
そのため未完成な部分や韋昭が自身と対立する派閥の人物の伝を立てていなかったことが『三国志』にも反映されてしまい、呉書は不完全なものになってしまったと言われる。