益州南部にある建寧郡の豪族。
漢の高祖・劉邦に仕えた武将で「怨敵でも正しく評価する」という話の代名詞にもなった雍歯の末裔とされる。
劉備の死後、反乱を起こして太守の正昂を殺害した上に後任として派遣された張裔も捕らえる。
さらに高定、朱褒も反乱に呼応すると李厳から手紙による説得を受けるが、
「天に二日なしというが、今は天下が3つに分かれていて誰に属すればいいのか分からない」
と返して拒否している。
その一方で士燮と通じて呉に帰属する意志を示しており、さらに歩隲の後押しも受けて孫権から永昌太守に任命されている。
その後、高定と共に自身が太守に任命された永昌を攻めるも呂凱の抵抗で難航し、その間に諸葛亮が南征部隊を編成した頃には高定と仲違いするようになり、高定の部下(演義では鄂煥)に殺害されてしまう。