蜀の文官。旧名は郤纂。
父・郤揖は郤正が幼い頃に没し、母も再婚したため一人で生計を立てるようになる。
貧乏ではあったが学問を好み、多くの書物を読んで名文を書けるほどになっている。
20歳になると蜀漢に出仕し、秘書吏、秘書令史、秘書郎、秘書令を歴任する。
また、朝政を牛耳る宦官・黄皓の隣に長年住んでいたものの、特に気に入られも嫌われもせず平穏に暮らしている。
鄧艾が成都に迫り、劉禅が降伏を決断すると降伏文章を書き、洛陽に移送される劉禅に妻子を捨てて付き従う。
洛陽では劉禅がつつがなく暮らせるよう補佐しており、劉禅が「もっと早く評価すればよかった」と言うほど後悔させている。
洛陽での劉禅の補佐については、特に以下の逸話がよく知られている。
司馬昭に「蜀が恋しくはないか」と聞かれた劉禅が「ここは楽しいので蜀のことは全く思い出さない」と答えると、
それを見かねて「『蜀には先祖の墓があるので一日とて思い出さない日はありません』と答えなさい」と進言する。
後日、司馬昭に同じことを聞かれたので言われたとおりに答えると、司馬昭は先の話を知っていたようで「それは郤正の言葉そのままですな」と返されたので劉禅は「はい、その通りです」と正直に答えてしまったため、物笑いの種にされて蜀の旧臣たちを落胆させ、司馬昭からも「これでは諸葛亮が生きていても国を保てなかっただろうな」と呆れられている。