賈午と韓壽の間に生まれた子。そのため、元の名は韓謐である。
魏の司徒・韓曁は曾祖父に当たる。
外祖父・賈充が死去すると、郭槐が原因で男児がすべて死去していたため、跡継ぎとして養子に求められる。
当時は同姓同士で養子をもらうのが通例であったため反対意見も多かったが、
郭槐は「賈充の遺言である」と押し通し、司馬炎に特例として認めさせている。
賈充の跡目を継いだ当時は賈南風が専横を振るっていた時期でもあることから後ろ盾はバッチリであり、
黄門侍郎を独断で処罰するなど皇帝をも凌ぐ権勢を誇っていた。
さらに臣下の分を超えるような豪邸を建て、その中で連日派手な宴会を催していたり、
二十四友と呼ばれる取り巻きを従えたりしている。
(二十四友の中には陸抗の子である陸機・陸雲兄弟や左棻の兄・左思がいる)
司馬衷の代になってもその権勢は続き、皇帝や太子・司馬遹相手にも横柄な態度を取り、
司馬穎がそれを非難すると賈南風に密告して左遷させたりもしている。
さらに司馬遹とも対立するようになり、賈南風に讒言して司馬遹を廃嫡させることにも一役買っている。
趙王・司馬倫がクーデターを起こすと賈南風に助けを求めるべく逃げるが、あえなく斬殺されている。