人物紹介 / 裴秀


裴秀

魏〜西晋の文官。

裴潜の側室の子で、生母の身分が低かったため裴潜の正室からは冷遇されていたが、母が毅然とした態度を崩さなかったため冷遇は止み、裴秀も裴家の後継者として認められるようになる。
(実は裴潜も生母の身分が低かったことで父から疎んじられた過去を持っている)

毌丘倹の推挙を受けて曹爽に仕官したという経歴を持つため司馬懿が曹爽を処刑すると免職されるも司馬昭に取り立てられている。
その一方で曹髦とも親しく、司馬望、鍾会、王沈らと共に曹髦の討論会にも参加していた。

晋王朝が成立すると、司馬昭の後継者として司馬炎を推していた事もあって重用され司空にまで上り詰める。
また、当時としては精巧な地図である『禹貢地域図』を作成し、さらに『製図六体』という製図法も定めて中国の地理学に多大な貢献をもたらした。
孫呉の征伐にも積極的であったが、薬の誤飲が原因で体調不良を起こし晋による三国統一を見る前に死去している。

上述の通り地理史における貢献から、現在でも彼の名をとった「裴秀賞」と呼ばれる優れた地図に対する表彰が存在する。
また、南北朝時代に正史三国志の注を書いた裴松之は叔父・裴徽の子孫にあたる同族である。

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