袁紹の次男。袁譚・袁尚による跡目争いでは基本蚊帳の外であった人物。
演義では軟弱な性格であるとされて父に疎まれ、後継者候補からは外されていた。
袁紹没後に袁譚・袁尚が共に後継を自称し袁家が二分されると、袁煕は一度は傍観を決め込む。
が、袁譚が曹操の支援を得て反攻に転じると、敗走してきた袁尚を自分の領地でかくまった。
これが大きな失策となり、曹操との敵対を良しとしない領内の豪族たちに反発され、領地を追われてしまう。
その後は弟とともに蹋頓や公孫康の元に身を寄せ戦い続けたが、最期は曹操を恐れた公孫康に殺害され、袁煕・袁尚の首は曹操の元に送られた。
この時、袁煕は公孫康を警戒していたが、袁尚は逆に公孫康を殺害して軍勢を乗っ取るつもりであったため強行したと言われる。
結局父の死後はひたすら弟に振り回されて共に破滅するという末路を辿っており、演義で言われる軟弱な性格もあながち的外れではなかったのかもしれない。
撤退時のセリフの元ネタは、公孫康に処刑される前に寒がって筵を要求した袁尚へ「我らの首は万里の旅へ向かうのに何故筵が必要なのか」とたしなめた事から来ている。ただし、これは公孫康の言葉という説もある。
尚、甄氏の元夫であり、任地である幽州へ赴任するにあたり彼女を鄴に残してきたのだが、その後鄴を落とした曹丕によって甄氏を奪われてしまっている。
また、フレーバーテキストに書かれるとおり子孫が生き延びており、唐代の宰相・袁恕己は彼の子孫であるという。