呉の文官で薛綜の次男。
戦国時代・斉の公子で戦国四君に数えられる孟嘗君・田文の末裔とされる。
孫休の代に散騎中常侍となるも、病のため職を辞している。
孫晧の代になると再び取り立てられ、太子補佐を務めた。
弁護してくれる相手に恵まれており、土木工事失敗の責任を取らされたり、政争に巻き込まれて二度の流刑に処されているが前者では華覈の、後者の件では陸抗の弁護により中央に戻されている。韋昭が没し、華覈も失脚した後に『呉書』の編纂を務めた。
杜預、王濬ら晋の軍勢が呉に迫ると孫皓に降伏を勧め、自ら降伏文を書き使者となる。
その後は晋に仕えており、司馬炎に呉が滅んだ理由を聞かれると「孫皓が小人を重用し、刑罰を乱用し、人心が離れた」と痛烈に批判している。
コーエー三國志では「5」での登場が印象深い。
後半登場の武将だが何故か史実・演義で戦死したわけでもないのに長生きする事が多く(史実では282年死去。コーエー歴史SLGでは、史実で若くして戦死や処刑の憂き目に遭った武将は、史実より長生きして天寿を全うする事が多いとはいえ)、場合によっては300年頃まで生き延びる事もあるからだ。
0人プレイで、戦力の拮抗や武将の死去で戦争が起きなくなり、単純に寿命戦になった場合に最後まで生きていた…という事も珍しくはない。