劉備、公孫瓚らに兵学を教えた大学者にして、黄巾の乱で活躍した名将。
盧植門下であったというネームバリューは、後に劉備の人脈作りに一役買っている。
清廉な人柄ではあったのだが、それが災いして黄巾の乱の折に宦官への賄賂を拒否すると、讒言され官位を剥奪されてしまう。
演義では護送中の所を劉備に見られると、力ずくで救出しようとする張飛を止めている。
演義において皇甫嵩や朱儁が酷い扱いをされる中、彼は劉備の師であったという事が幸いしたのか、
正史とほぼ同様の立派な人物として描かれる。
董卓が洛陽で実権を握ると、少帝を廃位し献帝を立てようとする董卓に反対意見を述べ処刑されかけるが、
蔡邕らの取りなしで助命されている。その後、身を守るため都を脱し隠遁。
最後は袁紹の招聘を受けて軍師を務めるが、192年に死去。享年は不明。