呉の政治家。本籍は陳留だが父・濮陽逸が江東に疎開し陸遜の弟・陸瑁に仕えた経緯を持つ。
孫権の代から仕えており、会稽太守に就くと当時そこに住んでいた孫休と親交を結ぶ。
孫休が皇帝に即位した後、孫綝を排除して実権を握ると太常、衛将軍を経て丞相に就任する。
丞相についた頃、孫休は学問に耽り国政を顧みなくなったため、同じく側近だった左将軍・張布と共に国政を担うが、
お世辞にも褒められた統治ではなかったようで、人々が失望するほどだったという。
孫休の臨終にて太子・孫ワンを後継者にする遺言を受けたが、万彧から孫皓を後継者にする進言を受けるとこれを容れる。
しかし後日、万彧に讒言されると参内したところを張布ともども捕縛される。
広州への流刑に処せられるが、道中で孫皓の刺客に殺害され、さらに本人のみならず三族皆殺しとなっている。